用語の定義
ー少しでも混乱を避けるためにー


弥生時代や弥生人言葉は常識になっているから 定義する必要もなさそうだが 弥生時代の開始年代が専門家の間で意見が分かれているように わからない部分が多い。
 だから 一般市民にとって A書の縄文時代後晩期とB書の弥生時代前早期のどちらが古い時代なのかわからない場合も生じる。書の著者が 弥生時代の開始年代を
BC5世紀とするか 3世紀としているかによって 縄文時代より弥生時代の方が古い場合も出てくる。

 また 日本列島へ水田稲作と金属器の技術(文化)を持ち込んだ時代から弥生時代が始まり それらの技術を携えて来た人が弥生人とされている。 だが 縄文人と弥生人の総入れ替えがあったわけではないから その弥生の技術(文化)を教わった縄文人も居たはずだ。
 弥生時代に日本列島に住んで居た人たちの全てを弥生人と呼ばないのであれば 縄文人の子孫は何人と呼べばいいのだ。たとえば 遺跡から弥生式土器が発見されても それは弥生人の遺跡か 縄文人の子孫の遺跡かわからないといった疑問や混乱が生じる。

 一般市民にとって わかっているようでわかっていないのが弥生時代であり弥生人なのだが 専門家の間で その辺の議論がなされていないようだから 彼らは混乱を混乱と感じない知識をもっているのだろう。だが 一般市民向けにしているこのホームページも「安曇族と徐福」も
読者ができるだけ混乱しないように 最小限 自分なりの定義をしておく。


弥生時代の開始はBC5世紀
 弥生時代の開始年代は 固定された年代でないので研究者の考え方によって変動している。弥生の産業改革に結びつくきっかけになったと考えられる歴史上の大きな出来事が起きた年で かつ その西暦年がわかっている年代を弥生時代の開始として BC5世紀に固定する。

 その根拠は、中国春秋時代のBC473年に越に亡ぼされた呉の人たちが日本列島へ再起を期して渡来した年代だが その理由については AD57年に倭の奴国王の使者が後漢の光武帝に朝貢し金印を授かった際 使者が「自分は、呉の建国者太伯の後裔と自己紹介した」という史料を決め手にしているが その説明と諸説ある弥生時代の開始年代およびその定め方については「安曇族と徐福」で説明しているので ここでは省略する。なお 弥生時代以前を縄文時代とする。

縄文人と弥生人
 縄文人は、縄文時代に(BC5世紀以前) 日本列島に住んでいた人たちだけを指し どこから来たのかその出自は問わない。弥生人は 出自を限定して 弥生時代開始年代以降に 中国大陸および朝鮮半島から日本列島に渡って来て住み着いた人たちと定める。すなわ 縄文人を年代で 弥生人を出自で分けた。

縄文系弥生人と縄文弥生混血人
 弥生時代が始まったといっても 当然 縄文時代から引き続いての日本列島に住んでいる縄文人の子孫がいたわけだ。この縄文人の後裔の呼び方が明確ではなく 旧縄文人だとか在来人あるは土着系弥生人などとも呼ぶひとのいるが 縄文人の血を受け継いだということで 縄文系弥生人と呼ぶことにする。
 また 縄文系弥生人と弥生人との間で混血した人を渡来的弥生人と呼んでいる人もいるが 単純に縄文弥生混血人と呼ぶことにする。そうすると 弥生時代の日本列島に住んでいた人たちは 弥生人 縄文系弥生人 縄文弥生混血人の三つに分けられる。ただ この人たちとは別に 弥生時代になって 中国大陸や朝鮮半島以外の南方あるいは北方から 新たに渡って来た人たちもいただろうが その出自が縄文人と同じだから縄文系弥生人として扱う。


海人(あま)
 
「あま」は 海人・海女・海士・蜑・白水郎・海部などと書く。岩波書店の広辞苑に「海で魚や貝をとり、藻塩などを焼くことを業とする者。漁夫。(海女と書いて)海に入って貝・海藻などをとる女性。」とあるように 現在は 潜って魚介類を獲る人で 女性を海女 男性を海士と書く例が多い。
 ここでは 塩の生産 魚介類を獲る漁労 獲ったアワビを干すなどの加工 水路を航海しての交易 それに水軍も含めて 河川・湖沼や海で活躍する人たちの総称とする。

彼らは 太陽や星を見ながら船の位置を知り 風や海流をとらえて たくみに操船する航海術を身に着けていて 東シナ海や黄海を舞台に活動し 中国大陸や朝鮮半島との交易に従事し その一方で日本列島内においても 河川を伝わって内陸部に入り交易や新たな渡来人の受け入れにも関与し弥生時代を築いた主役を担っていた。

安曇族
 狭義と広義のとらえ方ができる。狭義は 中国春秋時代の呉出身で博多湾の入り口にある志賀島を根拠地に活動した海人集団。広義は 狭義の安曇族の手助けで中国大陸から日本列島へ渡って来た水田稲作や金属器に関わる技術・技能をもって 弥生の産業改革を担った人たち。特に断らない限り 単に安曇族と称した場合 狭義の安曇族を指す。

弥生の産業改革
 日本列島では 太古以来一万年ほど狩猟を主体とした縄文時代の産業構造が続いていたが そこに 水田稲作・金属器使用・養蚕など新たな技術が伝わってきた。以来 産業構造が大きく変わった。すなわち 食糧生産には水田稲作が加わり 金属製工耕具を使って物づくりや新耕地の開発が進み その一方で 製塩・水産塩乾物・絹製品などの商品生産が増えて交易も盛んになった。
 その交易で得た利益を資金に 中国大陸から新たな技術や金属器などの新製品を導入し 日本列島の産業振興を進めた。弥生時代の特徴は、現代の日本にもつながる産業構造の雛形が出来たのだ。この新たな産業構造への変化を弥生時代の時代を略して弥生の産業改革と呼ぶ。