安曇族と穂高神社
 穂高神社を抜きに 信州アヅミ地を理解することはできない。だが 現在 安曇野市にある穂高神社は 信州アヅミ地の初期水田で示したとおり 信州アヅミ地で水田稲作が始まった地域ではない。なのに なぜ 現在の地に穂高神社が在るのだろうか? そこで 信州アヅミ地と穂高神社との関係を探ってみる。

 「古事記」(712年)に 「阿曇連等は 綿津見神の子 宇都志日金拆命の子孫」とある。また 「新撰姓氏録」(815年)に 「穂高見命は綿津見神の子で 安曇連は穂高見命の後裔」 とある。このことから安曇族と穂高見命がつながていることがわかる。
 そうすると 「古事記」と「新撰姓氏録」を合わせた系譜は 下のとおりになり 安曇連は 宇都志日金拆命の子孫でもあり 穂高見命の子孫でもある ということになる。
  
  だから 宇都志日金拆命と穂高見命は同じ神様だと解釈する人もいるし そうではないという人もいる。 だが これだけの資料で その成否を議論しても 決着はつかないだろう。 かといって 別途有力な資料の出現も期待できない。限られた資料だけで いくら議論してもあまり意味がない。
 そういった状況を踏まえて ここでは まず 安曇族は なぜ志賀海神社(福岡市)に海で見守っている神様を祀る一方で 穂高神社(安曇野市)に高い山の上から見守っている神様を祀っているのだろうか? この一見相反する海と山の神様を祀る必然性という視点から考えてみることにする。 

<自然信仰>海行かば海の神に頼り 山行かば山の神に頼る 
 現代のような科学知識や 天気予報・防災云々などがなかった弥生時代に 危険が大きい海に出るとき 人は 海には海の神様が居ると信じて お祈りすることで危険回避を願う。また 海がない山に囲まれた地においては 大風・大雨・旱魃・地震・雷などの自然異変に 高い山の上から見守ってくださる神様が居ると信じ お祈りすることで 精神的な安心安全を得る。これが厳しい自然を相手にしている人たちの間に生まれる自然(原始)信仰心だろう。

 こういった原始信仰心は 現在 科学的知識を多少もっている人でも 大きな病気や大きな危険にさらされるなど 弱い立場に立たされたときに 「苦しいときの神頼み」の言葉どおり 祈るような気持になることから考えても理解できるかと思う。この場合 特定の宗教心とは関係ない。 これが古代人が抱いた海の神様 山の神様の存在意識と考えても そう大きな間違ではないだろう。  

 こう考えると 海人の安曇族が 海の神様だけでなく 海がない地では山に神様を求めることは不自然ではない。 ましてや 安曇族のお世話で 信州アヅミ地に入植した水田稲作農耕民が 豊作も含めて その地から見える最も高い山に神様の存在を信じることは自然の成り行きだろう。

 同じようなことを宮地直一は 名著「安曇族文化の信仰的象徴」(穂高神社 1949年)の中で 次のように述べている。ここでは あえて著書の原文・原文字のまま転載したが の旧文字だけは私のパソコンに入ってなかったので やむなく入っているパソコンの文字を使った
(宮地は 偏の上段が白と下段のヒを使った即 同じく示偏の視)。読むとわかるとおり 私もそうだが おそらく 今の若い人には読みにくい文章表現と文字かと思う。だから この文以降 宮地の文章は 私なりの表現に変えさせていただく。

 「何人でもこの地方(安曇野又は松本盆地)に入って直ちに氣着かれるは、蜿蜒として西方國境に連亙する信飛山脈、即ち近時世上に喧傅せられる日本アルプスの世にも稀な壯觀である。幾多の支流を合わせて次第に大をなしながら、我が物顔に中央の平原を走る犀川の偉容之に次ぎ、山と水との相對的聯關に於て意識せられる中で、殊更に人心に深い印象を與へるは前者を以て最とする。古人が仰視していつしか敬虔なる信仰心を生じ、之を日常崇拜の對象とするに至つたのも偶然でないので、かやうな實例は比比として所在に求められる。」

 以上のように考えていくと 安曇連が 海神綿津見神の子 宇都志日金拆命の子孫であっても 穂高見命の子孫であってもおかしくない。 
 そもそも 「記紀」にある神様の系譜は 生物の分類系統樹のように 必然的な進化の過程を基にしてできたものではなくて 「記紀」を編纂した時代に 各地から集めた情報に一貫性をもたせるための整理過程でつくられた と受け止めた方が理解し易い。 「新撰姓氏録」も同じである。 だから 神様の世界を生物学の系統樹的に 辻褄の合うように整理しようと無理することはない。

 赤い点線は 穂高岳に降り立った神が梓川を下り 犀川から穂高神社に入る経路
 ○数字は 松本盆地の初期水田適地
<河川合流地に必要な施設> 
 次に なぜ穂高神社が 信州アヅミ地の初期水田開発地でない現在の安曇野市にあるのかということを考えてみる。ただし これから述べることは 現段階では 明確な根拠を示すことができないから 推理(考察)の域から 想像の域に踏み込んだものになる。

 右の図からわかるとおり 現在 穂高神社は 松本盆地を流れる諸河川が集まる位置に在る。 すなわち 地形から見て この位置は 安曇野を扇を広げた形に見立てると 要に当たる。 すなわち 河川を使った水路交通時代の要所に穂高神社は設けられたということだ。 
 現代の東京で言えば 東京駅・池袋駅・新宿駅・渋谷駅などのように電車の各線が集中した場所と 機能面からみて 共通性がある。川と電車 古代と現代の違いだけだ。

 これらの要に当たる機関(施設)は 時代を問わず 人の活動に応じて 必然的に生まれる。 安曇野(松本盆地)における安曇族の役割については 
拙著「安曇族と徐福」にも書いたように 祭礼だけでなく技術・情報の伝達や統治などの諸機能を備えた機関であったから おそらく 安曇族が安曇野に入った時代にも(これも拙著に描いたが AD1世紀以前 おそらく BC3〜2世紀) 河川の合流地付近に設けたと考えていいだろう。ただし これら合流地付近は 洪水の危険性があるから 微高地を選択することになる。 
 
 そうすると 安曇野の開発は 図の中で @〜I数字で示した奈良井川水系にある初期水田適地から始まっているから 奈良井川と梓川が合流する付近に穂高神社の原型が設けら 梓川・烏川・高瀬川の各水系の開発が進むにつれて 現在の地に移った可能性も考えられる。 
 この河川の合流地域に何らかの施設が設けられた例としては 犀川と高瀬川の合流地に設けられた川会神社 長野県中野市の千曲川と夜間瀬川の合流地から発掘された柳沢遺跡などがある。 だが合流地付近に施設が在ったことは 遺跡でも発掘されないと確認できないから ちょっと淋しいが 道路工事など昨今の開発事業に頼ることになる。

<人里近くに社殿設置>
 現在の穂高神社の位置について 宮地は著書(前掲)で 穂高岳への信仰心は 人々が山里奥深く入ったところにある現在の上高地から穂高岳
(注1) を見た神々しい光景に心を打たれ 自然に山の霊への信仰心が生じたことであろう。だから 安曇族がこの地に入植する以前から 現地人(縄文人)が原始信仰として 社殿を設けることなく自然の姿を上高地付近から穂高岳を拝んでいたと考えられる としている(注2)
 また 古代上高地の社殿的な施設はなかったが 時代経過とともに 人々の信仰の念が深まると山霊のために 人里近いところに祭り場の設置が望まれて 現在の穂高神社付近に社殿が設けられた。 多くの神社が山を背負っているのに 穂高神社が背負っていないのは 水利に合わせたからだ と述べている。

 その上高地の奥宮と里にある本宮(穂高神社)との関係は たとえば 里の穂高神社で雨乞を祈祷しても効果が出ないと 奥宮に出かけて明神池に筏を組んで乗り回し 大声で水神の霊を喚起したり 池の水を汲み取って里に持ち帰って祭ったりする。 これらは 奥宮が本宮よりも権威をもっている表れである(宮地)。 要するに 本宮で通じないとき 奥宮に詣でることは 本宮より奥宮の方を格上ということなのだ。
 
(注1):穂高岳は 単独峰でなく 北アルプスにある高峰群の総称。 現在奥穂高岳の山頂に小祠があるが これは近代以降の設置。 穂高神社奥宮がある明神池から見えるのは明神岳(高橋千劔破「穂高岳ー安曇族と穂高の神」月刊MOKU2005年)
 
(注2):奥宮の創建記録としては 元禄6年(1963)が最も古い(高橋)。

 山間の上高地から人々の集落近くの現在の地に社殿が設けられたことは 平たく言えば 時間的に見て 穂高岳あるいは上高地まで出かけて参拝できる頻度が少ないので より多くの頻度で参拝できるよう 短時間で参拝できる社殿を身近なところに設けたと言うことだろう。 これは 現代 物理的に参拝できないこともあって 神社から頂いただいて来た御札を家や船などの神棚に供えて拝む風習にも通じている。 

 そうすると 人が穂高岳に出向くのでなければ 神様に穂高神社へ入っていただかねばならない。 その神様をお迎えする儀式が神事であるが 神事は別として 神様のご来訪経路について 結論を先に述べると 
上の図に赤い点線で示したように 天から穂高岳に降り立った神様が 麓の上高地(注)にある奥宮を経由して 上高地を流れる梓川を下り 犀川に入って 穂高神社の東から上陸して神社へ入られる。なお 穂高神社は東に面している。
 (注):奥宮の由緒によれば 神降地・神合地・神垣内・神河内などとも書く。   

<神は天と海の彼方に存在>
 福井県越前町の漁村の神迎え経路
 地井昭夫「黒潮の民俗と日本の沿岸集落」より転載
 日本には 神様の来訪経路については 安芸の厳島神社の海中に建っている鳥居が示すように 海の彼方から来るという水平的な考えと 天孫降臨のように山の上に降り立つという垂直的な考えがある。
 これらをとことん突き詰めることはできないので 少し突き詰めると 死んだら海の彼方に行って神様になるという黄泉の世界の考えが水平思考で 中国の秦の始皇帝や前漢の武帝が行なった天に近い高い山上で天子になる封禅が垂直思考の代表と言ってもいいだろう。
  いずれにしても 神様は遥か遠い世界に存在するという考えである。 もっとも 前者は海に面していないと生まれないし 後者は 海がないところで遠い空間といえば 天に限られるから 地形が影響していることは確かだ。

<天から山へ 山から水路経由で 社殿へ>
 以上のように 神様の存在は海と天の二つに分けられるが 実際は 両者を混ぜ合わせた形で 神様を迎え入れる例がある。 黒潮地井昭夫の論文「黒潮の民俗と日本の沿岸集落」
(季刊「河川レビューNo.89」新公論社 1994年)に 福井県越前町の漁村の神社に 神様を迎え入れる経路が出ている。
 それは 右上に地井の図を転載したが 神様は地元で赤岩と呼んでいる断崖に降り立つと そこから線で示してあるように 渚を通って漁港で人々に迎えられ 集落の奥の鎭守の森の中にある神社に入られる そうです。

 この漁村は海に面しているが 神様は水平線の彼方からではなく また 直接鎮守の森でもなく 一旦 天から赤岩の断崖に降り立って そこから陸路を使わないで 水路の海を伝って神社へ向って上陸される。 こうやって越前町の漁村の神社では 垂直と水平を折り混ぜて 神様をお迎えしているのだ。
 これは 穂高岳に降り立った神様を穂高神社へ迎え入れる経路の参考になる。人が穂高神社から同奥宮へ行くには 鍋冠山から大滝山を経て徳沢に下り さらに梓川沿いに下流へ進むか 島島から徳本峠を越える陸路をたどる
(高橋)そうだが 神様は 越前町と同じように水路を通られるとすると 梓川・犀川を下る経路になる。この経路だと 垂直と水平を採り入れた点でも 穂高神社が犀川の方へ東面している点から考えても整合性がとれている。
倭名抄にある郷の配置
 小穴芳實「豊科町の土地に刻まれた歴史」
より転載

 そのように考えてくると この梓川沿いが穂高神社 すなわち安曇族とのかかわりが深いことになる。だが 倭名類聚抄に出ている安曇郡の高家(タキベ)・八原・前科・村上郷の所在地について 小穴芳實は「豊科町の土地に刻まれた歴史」
(豊科町教育委員会 1991年)で 村上郷の比定に苦慮しながら 倭名抄に出て来る順番が南から北へ向っているので 最後に出てくる村上郷は最も北に在ったのだろうと右の図のように推定している。
 この考えは 宮地も同じで 高家・八原・前科郷はそれぞれそれに因む地名が現在もあるので それらの地周辺だろうが 村上郷にはそれがないが 前科の北にする以外にない と疑問を呈しながら 小穴と同じに扱っている。

<倭名抄の村上郷は梓川沿い か>
 この村上郷の所在地については 京都大学文学部国語学国文学研究室が「諸本集成倭名類聚抄 外篇」(臨川書店 1981年)で 梓川沿いの旧梓川村の氷室・大妻・杏・角影・立田・大久保・丸田・田屋・寺家・上野・花見・焼山(八景山?)・大野田・稲核など現在の地図帳に出ている地名を挙げている。
 また 小穴芳實も「日本の神々9」(白水社1987年)では 明応10年(1501)の「三宮穂高社御造宮日記」に記載されている各郷からの造宮負担料リストに 大町以北の最北部と考える村上郷が入っていないことを指摘している。
 なお このリストには 氷室・大妻・角掛(角影)・杏・など旧梓川村の地名は出ている。
 また 倭名抄にある村上郷の所在地を安曇郡の郷を南から北への順番で記述されたのだろうとして 大町北の最北地にしたが 倭名抄に出ている奈良盆地の郡の郷を見た限りでは 南から北へなどの法則性はみられない。 以上のことから 倭名類聚抄の安曇郡村上郷の所在地は 京都大学の指摘する梓川沿いの地域の方が有利に思える。
 それに 穿った見方をすると この旧梓村地域からは 上高地へ島島から徳本峠を経由して上高地へ行く経路や 現在の国道158号線沿い あるいは 梓川を船で上る経路もありそうだし 村上の上は川の上流を指すという考えや 村神だということも考に入れると 穂高岳→神降地→村神と梓川沿いに下る穂高神社へ神様が向う経路が浮かんでくる。いかがだろうか?
 
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