金印偽造説への疑問
                                             
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千葉大教授の三浦祐之さんが「金印偽造事件」(2006年11月幻冬新書)という本を出した。 内容は 57年に後漢の光武帝から奴国王が授かった金印は 1784年になって志賀島(福岡市)から出土したとされているが この金印は 江戸時代に偽造されたものだ という話が書いてある。

 金印偽造説は これまで何人もの人が唱えているから 特段珍しくはない。 ただ 三浦さんは 実によく調べて 偽造者まで特定している。 当然反論も出るであろうが 三浦さんの著書に とにかく議論が盛んになることを狙った という節が見えるので その手に乗りたくないと思う人も 取るに足らないと相手にしない人も多いだろう。

 当の金印は 現在 福岡市の博物館の看板として常時展示してある。 だから 博物館の学芸員の中にも 反論したい気持をもっている人もいるだろう。 だが 2007年3月9日現在 まだ反論の声を聞かない。 反論することで三浦さんの術中にはまることを避けたい気持や 反論の対象に値しない という思いがあるのかもしれない。 

 三浦さんは 著書の中で 亀井南冥が金印を光武帝から授かったものだと鑑定して その貴重さを伝えたとされているが 実は 亀井が館主になる福岡藩の藩校「甘棠館(カントウカン)」の開設や 自分の名声が全国に知れ渡ることを狙った売名行為のための偽造ではないかと書いている。 読み終えて ことによると 三浦さん自身の心理を亀井南冥に投影しているのではないかと穿ったことを感じた。

 私が知らないだけかもしれないが 専門分野ではいざ知らず 三浦さんは まだ一般の人にまで名を知られた学者ではなさそうだ。 全国にその名をとどろかしたい気がどこかにあっても 学者として当然である。 それをエネルギーとして金印を調べ上げたように研究に勢力と注ぐことは高く評価できる。 その半面 勇み足も生じたのではないかという気もする。

 ところで 朝日新聞が2007年3月3日に この三浦さんの著書を採り上げ 地元福岡では複雑な反応だと報じた。 私にとって金印は 安曇族を追いかけている中で 57年に奴国王が光武帝から授かったことと 志賀島から発見されたことで多少かかわっているぐらいだから 三浦偽造説に共鳴することも 反論する必要もない。 いわば観客席から眺めているようなものだ。 でも この問題は 反論の是非で葛藤している関係者よりも 観客席から野次を飛ばした方がいいのかとも思う。 そこで 以下 三浦偽造説の疑問点を著書のページに沿って列挙する。
 

 
但し 漢から奴国王が授かった金印は 魏の時代になり召し上げられる可能性を危惧して 隠したという考えに立つ。

14- 金印出土位置
  隠し場所には 秘密だから標識は置かないで 代々口で伝ええる。口で伝えるには 誰にでもわかる伝え方になる。 位置は 目印になる島や山を直線で結ぶ線と直角に近い角度で交わる線の交点で示す 山合わせ
(山立てともいう)ができる条件が要る。
 現在の金印公園付近だと たとえば 能古島の岬と後ろの山を結ぶ線 それと直角に近い角度で交わる山合わせの線は出せるから条件を満たしている。
 また 君主は 北を背にして南面する。 大切な金印だから 北を山(崖)背にして 南が開けた金印公園の地は 地形的にも理にかなっている。
24- 金印の傷
  偽造するぐらいの人が 土の中から出てきたことを装うのだったら 金印に傷ぐらいはつけただろうに。
(この疑問は随所に該当する)
31- 発見者
  「甚兵衛(兄は喜兵衛)とは別の秀治と喜平」 この地方では屋号は使わないのだろうか。甚兵衛・喜兵衛は屋号で 秀治と喜平が名前?
33- 弥生時代の遺物皆無
 隠し場所は 人が近づけない 人を寄せ付けない場所を選択するので 無くて当然。
35- 奴国王の本拠地
 交易には肩書がいる。中国との交易上 奴国王と称しただけで 強いて言えばボスが王である。 57年に光武帝に朝見したとき 奴国の使者は大夫と言っている。これも中国の身分制を借用しただけで 当時の奴国に大夫などの身分制があったとは考えにくい。 王も同じ。
40- トライアングル
 相談相手をたどるとき 知り合いの人に限定されることは当然。また ロータリークラブのような識者のグループが出来るのも自然。
43- 一旦発見者に返還
 口上書で時間経過のつじつまをあわせるための記述もありうる。 嘘も方便。
44- 噂のソース
 人にもよるが 一般的に発見者は 手柄話を吹聴するものだ。 だから金印に関する風説のニュースソースを才蔵と決めることはできない。

50- 修猷館の対抗意識
 対抗意識があれば 愚考を出すことはやらない。 本当に知識が無かったと受け止めたほうが素直だろう。 愚考は愚考 曲げて評価することもないと思う。 
52- 才蔵から津田へ
 才蔵が亀井と知り合いであれば 一般的に考えると 金印の価値判断は 役人の津田に届ける前に 博学の亀井に鑑定をたのみ 価値があると分かってから役所へ提出するはずだが。 
54- 現場検証
 もし偽造であり 現場に出向いた方が より欺き易いのであれば 当然現場に行くが 偉い人がいちいち現場に足を運ぶことは威厳にかかわるから行かない。
66・193 動機
 士族を上に 町人を下に見ているが 国鉄の駅名を福岡としないで博多としたなどからもわかるが その昔から福岡(博多)の町人は 町は自分等がつくったという自負心が強い。 だから 町医者の息子で 長崎で学んだ亀井が黒田藩にかかえられ 藩校甘棠館の館主になっからといって 本人も周りの町人も大抜擢だとか 成り上がったというケチな感覚より 俺たち町人の亀井先生が 藩の健康を管理してやるようになり 学校をつくって教えてくれる と鼻高々だったはずだ。

 福岡藩には 上級士族の師弟が通う藩校と 館長が町人で 下級士族の師弟が通う
(とあるが 農・商家の子息も学んだ)藩校があった。 他藩に例のない一つの藩に二校だがと三浦さんはいうが これは 士族学校と町人学校の図で 他藩に比べていかに町人の力が強かったかの現われでもある。
 現在でも 士族の藩校の流れの修猷館と町人街博多にある福岡高校が 長い間 文武ともに競い合っている。

 亀井は1769年に 藩主へ教育の必要性を説き学校開設を提案している。 三浦さんは 町人上がりの亀井が 上級士族が通う修猷館の館主「竹田に激しい対抗意識を燃やし、心踊らせながら甘棠館を開校した様子が、ありありと伝わってくる」と書いているが これは 読み過ぎで 次元が低い下衆の勘繰り のようなものだろう。 亀井の町人教育への情熱の表れと受け止めた方が素直かと思う。
 また 金印が発光する前の年
(1783年)に学校開設は決定されている。 だから 開校を目的に金印を偽造するという動機はないはずだ。
72- 二つの印
 もし金印を偽造するのであれば 同じように模刻した印を押すような間抜けたことをしないだろう。 悪いことをする人には その辺の悪知恵はよく働くものだ。
77- 蛇鈕(ダチュウ)と虺鈕(キチュウ)
 偽印をつくるのであれば 後漢書に鈕が何であるかまで書いてないのだから ややこしい蛇鈕にしないで虺鈕にしておけば いい話だ。  
78- 倭と委
 金印に「漢委奴国王」とあり後漢書に「漢倭奴国王」とある。 これも 偽金印をつくるなら 後漢書にしたがっていれば問題ない話だ。倭と委の違いを 文字のバランスとかデザイン上云々など難しくとらえないで これは 野蛮は東夷の倭を人と認めていないから 人偏を外したのだ。 その人と認めていない奴国の使者が 太伯の後裔だ 大夫だと言ったから 漢の人は驚いて そのことを記録している。   
87- 文章の日付
 日付はいつの時代でも さかのぼったり 遅らせたり出来る。
90- 螭鈕(チチュウ)
 活字が無い時代 誤読誤記はありうる。 達筆であればなおさらだ。 このページに獅鈕は螭鈕の誤写あるいは勘違いとある。 亀井が蛇と書いたものを螭としたとしても おかしくない。 とにかく 偽印をつくろうとする一味が こんなことでドジを踏むことは考えにくい。 ましてや「集古印譜」という参考書まで持っているのであればなおさらだ。
102- 印に国の文字
 これも 国の文字が入った印がないのであれば 偽造者は入れなければいいはずだ。 それが入っているということは 本物の証かもしれない。
110・171 薬研彫りと箱彫り
 陽刻でなく 陰刻の印を粘土に押し当てて 封泥するのであれば 箱彫りの場合は 彫りこんだところの空気が逃げにくく また 印を粘土から離す時 粘土がくっつくこともある だから文字が欠けやすい。その点 V字型の薬研堀だと 押すときも空気が抜けやすく 離す時も 離れ易いから文字が欠けにくい。
131- 同一工房・工人
 「廣陵王璽(58年作)」と「漢委奴国王(57年作)」印が 時もほぼ同じだし 王の文字に共通性もあるなどから 同一工房の同一人による作品の可能性を述べ それにしては 技術的な違いがあると指摘しているが これは 廣陵王といえば武王の子供 片や奴国王は 人と認めていないような野蛮人 同一工房であっても 同じ人が作ると考えない方が素直だろう。 少なくとも 師匠と弟子ぐらいの違いはあっただろう。
171- 一度も使っていない
 偽者づくりのひとが 使ったように見せかけることは簡単だが 傷がつかないように管理する方が難しい。
179- 篆刻家と鋳物師の口
 亀井が偽金印を作るとすれば 多くの人と口裏を合わせなければならない。口が多ければ多いほど 秘密は露呈し易い。
198・204 全国的な名声
 博多の町人気質は 博多山笠祭を見ても分かるように 気風のよさだ。 全国への名声を考えるケチな野心は合わない。 それはそれとして これは三浦さんの心で 亀井南冥の心を読んでいるようにも思えた。
 学者がみんな名声云々で研究しているとは思えない。 テレビタレント張りの学者は別としても 好きだから 使命感をもって などで取り組んでいる学者が多いと思う。 だから学問は進むのだとも思う。
210- 蛍光X線分析
 「漢委奴国王」の金含有率は 非破壊検査の蛍光X線分析で分かっている。 三浦さんは 「滇王之印」「廣陵王璽」も同じように検査すれば 「漢委奴国王」の真贋が分かるというが おそらく 分からないだろう。
 それは 江戸時代の小判の金含有率が 年によって違うように そのときの経済状態も反映されるし 光武帝の子供と奴国王に同じ金含有率の材料を使うことも考えにくいし 別に規格があるわけでもないから 三個の金印の金含有率を測定すれば 値にばらつきがでて当たり前だろう。 そのばらつきで真贋を問うわけには行かない。 
 
 

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