大場磐雄「信濃國安曇族の考古学的一考察」(1950年『信濃』第一巻信濃郷土研究会)
  「(具体的な年代示さず)安曇族は日本海の糸魚川から姫川沿いに安曇野に入った」
  
  4ルート(地形から設定)
   @糸魚川から姫川をさかのぼる
   A直江津から荒川をさかのぼる 又は 信濃川をさかのぼる
   B尾張から美濃に出て木曽川をさかのぼって 伊那谷を通る
   C三河から天竜川をさかのぼり伊那谷を通る)

  消去法
   @伊那谷から諏訪に出るルートは諏訪族の勢力圏だから避けただろう
   A銅戈と銅剣が更級郡から出土 太平洋側との結びつきは薄い
   B更級郡には 安曇族に関係する地名がほとんどない
   で残ったのは 姫川をさかのぼったルート と絞り込んだ

  根拠
   姫川河口の近くに 安曇族とかかわりがある青海町と磯部村という地名がある 
   ただ 姫川をさかのぼった理由については何ら手がかりがないが として 
   ヒスイを求めて小滝近くまで遡上し そこから安曇野までわずかの距離 


現実は無理 
  姫川は急流で 船に荷を積載して遡上する限度値の平均で5倍以上 
  その上河床には大石が転がっているから 船の航行は無理 だから 塩の道も陸上

宮本常一「瀬戸内海文化の基盤」(1963年民族学研究26巻4号)
      「日本の海洋民」(1974年未来社)
  「漁民をひきいていた安曇氏は、若狭から近江に入り、また糸魚川を遡って信濃に入っています」

 時代を3〜4世紀 と 8〜9世紀を想定そているが
 根拠は「播磨風土記」に「安曇連百足が、孝徳天皇(645〜654年)に野を開いて田をつくることを命じられた」とあることだけ。

実際はそれ以前から稲作  

以上 両者は仮説として出したが それを検証することなく「海人の陸あがり」として使われている

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