安曇族と住吉神社-6(神戸市:本住吉神社)
大和朝廷の三段階防衛体制に住吉神社 
 2010年4月下旬 神戸市東灘区の本住吉神社 大阪市住吉区の住吉大社 大阪府河内長野市の住吉神社 それに 大阪市中央区の坐摩神社 福岡県那珂川町の現人神社を訪ねた。 いずれも筒男三神にかかわりがあるといわれている神社だ。  ここでは そのかかわりの真偽も含め まず 神戸市の本住吉神社についてを記し 残りの神社についても老い老い記す。

 今回の現場訪問で 私が訪ねたい住吉神社は 対馬の住吉神社を残すのみとなり おぼろげながら 大和朝廷にとっての住吉神社の存在が分ってきたような気がする。 まだ 気がする段階だから もちろん その根拠が明確になったわけではない。 もう少し調べが進むと 違った結論に達するかもしれない。 このことを前提に 現時点で 分ってきたと思っていることを記す。
 
 他の項で既に記したことと重複するが 住吉神社は 大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えた防衛上の基地である。 その基地に三種類あって 一番目は敵船の入港を阻止する基地 二番目は敵軍の上陸を阻止する基地 三番目が上陸された後に敵軍と戦う基地で 三段構えの防衛体制がとられていた。

 一番目の基地は 対馬(未踏査) 壱岐 下関 神戸 二番目の基地は 福岡 大阪 三番目は安曇野(住吉4参照)の住吉神社である。 それらの特徴として 一番目は 海上を航行している敵船をいち早く見つけ 船が停泊のため河口から入ってくるところで阻止する。 だから 川の上流の小高いところに住吉神社を祀っている。 二番目は 多くの兵士が集合できる広場を有している。 三番目は 川や渓谷などの地形を利用して防衛する体制をとっている。 

 戦闘には 戦士の志気を高めるために 何のために戦うのかというそれなりの大義名分が必要である。 当時は 筒男(住吉)三神のために戦うとしていた。 だから 住吉神社に筒男を祀ったのである。  住吉神社は 神と人との接点なのだ。

神戸市の本住吉神社の地図は 右 Map Fanより 地図リンク
 直線の階段にコンクリートで整形された住吉川 住吉川を上り 国道2号線を左折すると本住吉神社
神戸市東灘区住吉宮町 住吉(筒男)三神を祀る
書紀にある「大津渟中倉長峡」は どこか 
 神戸市東灘区にある本住吉神社の所在地は 右Map Fan を開けるとわかるように 六甲山から魚崎へ流れる住吉川が近くを流れている。
 私は阪神電車の魚崎駅から住吉川沿いに徒歩でさかのぼって 国道2号線を左折して本住吉神社を訪ねた。 歩行距離は 2km弱でブラブラわき見をしながら30分ほどで本住吉神社に着いた。
 
 現在の住吉川は左写真のとおり コンクリートと石で両岸を固め 階段状に流される人工流路だったが その昔は 蛇行しながら流れる川であっただろう。
 流量は 雨が続いたこともあってか多く きれいな水が不自然に流れていた。 また 左右両岸に走る河川敷か河岸段丘に当たる部分は コンクリートの道で市民が散歩を楽しむようにつくられていた。
 ところどころに「橋下の雨宿り危険(上の道路に上がる)階段まで左100m 右115m 兵庫県神戸土木事務所・神戸市・住吉川清流の会」などと書いた看板がでていたから 増水時にはかなりの水嵩になるようだ。

 本住吉神社が 住吉神社の頭に 本(モト)を付けている。その由縁は 一言で言えば 大阪の住吉大社の大本
(オオモト)は この神戸の住吉神社から遷ったのだ という主張である。

 その根拠は 本住吉神社社務所が発行した「本住吉神社記」(横田正紀 宮司 2000年)によると 本居宣長(1730~1801年) が 現在の当地(その昔 莵原郡住吉)だと指摘した説による。 この説を裏付ける資料が勝尾寺の文書に残っていた(箕面市史勝尾寺文書178 社領の項参照) そうだ。

 その具体的な内容は 「宝治元年(1247年)の『請文案』に津守為弘以下10人の人たちが連署している。鎌倉時代、当社には津守氏が『大阪へ遷すもとの住吉』の意をもって、『もと住吉』と謂い『本』の字を宛て用いたものであろう。
 そしてこの文書から、書紀の伝える神功皇后の住吉神御鎭祭地『大津ぬらくらのながを』は当社の地であったと推論して間違いないであろう。」 ということである。

中倉之長峽は 大阪湾が見渡せる位置
 だが この本住吉神社の主張を否定する考えもある。 「日本の神々」(白水社 1984年)で 落合重信は 横田健一が「西宮市史」で書紀に出てくる「大津淳(渟)中倉之長峡(峽)」は、大津を難波ととった方が、本住吉よりよさそうである。」と書いていることを例に出して 落合も「(神戸だとする)本住吉説には組しがたいような気がする。」と書いている。 
 その根拠として ①文献が無い ②住吉はもとはスミノエと称し 後にスミヨシとなるが 神戸の地はスミノエと称されたことがない ③本住吉神社は式内社でもなく 旧村社に過ぎない(住吉大社と格が違う) といったことを指摘している。

 落合は ①で文献が無いと言うが 時代を考えれば 無くて当然だろう。 その後 本住吉神社は文献があったと言う文献も その年代が鎌倉時代では その信憑性が問われるだろう。 ②でスミノエと称されなかったと言うが これも そういう記録が無いということと同義だから 文献が無いという指摘と同じである。 ③の格が違うと言うが 宇佐神社の元宮といわれる金富神社が郷社であるように 遷宮した跡の元宮の格が高い例は 私が知る限りではなさそうだ。 そう考えると 落合の示した根拠は はたして根拠となりうるだろうか 疑問である。 そのことは 落合自身が「本住吉神社説には組しがたいような気がする」と自信のない記述に表れているのかもしれない。

 また 住吉大社禰宜の川嵜一郎は 「大阪府漁業史」(1997年 大阪府漁業史編さん協議会)のー大阪の漁業と神社ーと題する中で 書紀にある「大津の渟中倉の長峽・・・」の所在地を 南北に細長くのびる上町台地の南端にある住吉大社として扱っている。 この川嵜の長峽の扱いについては その前にある大津とも関わるので 後述する。

 では この神戸の本住吉神社について 別の視点から客観的に見てみる。 まず 先の「大津の渟名(中)倉・・・」は 日本書紀の神功皇后の項に出てくるもので そこには 新羅を討った神功皇后が 海路を京に向う途中難航しながら 武庫の港に帰還したとき 占って 天照大神の教えで広田神社を 稚日女尊の教えで生田神社を 事代主命の教えで長田神社を祭った。 さらに 表筒男 中筒男 底筒男の三神が教えていわれるのに 「わが和魂を大津の渟名(中)倉の長峡に居さしむべきである。そうすれば往来する船を見守ることもできる」と。 そこで神の教えのままに鎮座し頂いた。 それで平穏に海をわたることができるようになった と書いてある。(日本書紀は 宇治谷孟の現代語訳 講談社学術文庫1988年による)
建物に遮られなければ 本住吉神社は 明石海峡から
大和川河口まで大阪湾が一望できる位置にある

 ここで注目したい一つは 「往来する船を見守ることもできる」と言う記述である。 これは 大阪湾を航行する船を監視できる ということだ。 左の図を参照していただきたい。

 地球は球状だから見える距離は 遮るものがなくても限度がある。 その見える距離 すなわち視達距離は 次の計算式で求められる。

 K=2.078
   K(海里)=1852m  h=眼の高さ(標高m)  H=対象物の高さ(標高m)

 本住吉神社から大阪湾を航行する船を見る場合 本住吉神社の標高は24m 人の目の高さを1mとし 対象物の船の海面上の高さを1mとして √ を外すと  K=2.078×(5+1)=12.468海里 すなわち 本住吉神社から 遮るものがなければ 23kmほど先まで見えることになる。
  
 そうすると 本住吉神社から大阪湾を眺めた場合 右手は 視界を遮る鉢伏山を外した線上にある淡路島の岩屋港までが26kmで 線上の明石海峡の中央までが23kmほど  左手は 現在の淀川河口までが15kmほど 現在の大和川河口までが21kmほどである。 だから 本住吉神社は 明石海峡を抜けて 旧大和川や木津川河口へ向う船 および その逆を航行する船を監視できる絶好の位置にあると言える。(現在は建物があって見通せない)
 
 その点 住吉大社は標高8mの位置にあるので 視達距離は15kmほどで 北は西宮市と尼崎市境の武庫川河口付近 南は大阪府忠岡町付近を通る点を結ぶ円弧を描いた扇状の海域しか見えない。 したがって 今の神崎川 淀川 木津川 大和川の諸河川が流れ込んでいた古代の河内湖に 入って来る船団の姿をとらえても それに対処する時間は短い。 
 
 先の横田が 西宮市史に 「大津を難波ととった方がよい」と書いているそうだが 私は西宮市史を読んでいないので その根拠がわからない。 それはいずれ調べるとして 書紀のこの部分は 神宮皇后が武庫の港に帰還して占った結果を基にした記述である。 
 
 武庫の港とは おそらく 武庫川をさかのぼったところの船着場であろう。 書紀の巻第10応神天皇の項に 武庫の港に500隻の船が集まったとでているから 武庫の港は大津と呼んでもおかしくない大きな港だった。 大津という表現がどんな津を指すのか分りにくいが たとえば 那大津といえば那の津 博多津とも言われる現在の博多湾にある港である。 現在 博多湾には 住吉神社の近くを流れる那珂川の他に 室見川 御笠川 宇美川 多々良川といった川が流れ込んでいる。 これらの諸河川に それぞれ船が入る港 すなわち津であったはずだ。 これらの津を集合した総称を大津と表現したのではないだろうか。 
 これについては 今後 事例などもう少し調べねば 明確な根拠になりえないが 現段階で大津は津の集合体だと考えると 現在の尼崎市と西宮市境を流れる武庫川から 西の芦屋市や神戸市を流れる夙川 高座川 天上川 住吉川 石屋川 生田川 湊川を利用した津の集合体は 大津と称されてもおかしくない。 

 書紀に「大津」という表現は 大津皇子などの人名を除くと 7ヶ所出てくる。 その中の一つは ここで問題にしている「大津の渟中倉の長峽・・・」の大津だから あとの残り6ヶ所の大津について 宇治谷の書紀現代訳文を見ると 原文は大津という表現であっても 確信をもってしその地を示したヶ所は 難波2ヶ所(応神天皇・仁徳天皇の項) 博多2ヶ所(斉明天皇・持統天皇の項) 泉1ヶ所(皇極天皇の項)で 確信は無いが羽曳野市ではないか と言うのが1ヶ所(天武天皇の項)ある。

 その地を示していない 「大津の渟中倉の長峽・・・」の大津は 宇治谷にも推定できないのかもしれない。 平安時代に津と言えば難波津のことだそうだが ともかく 書紀の神功皇后の項に出てくる大津は難波だと言い切れる根拠がないと見ていいようだ。 前述の川嵜は上町台地が細長地形であることを根拠に 長峽を住吉大社のある地として扱ったことは 次の示す「長峽」の解釈から見ても疑問である。
 
 
注:なぜ川が港かという疑問をもたれた方は 拙著や本ホームページで これまで述べているので参照して欲しい。

長峡は細長い地形を表わした言葉
 もう一つ 「長峽
(ナガオ)」という記述を文字通り解釈すると 長峽國は 長くて狭い地形をした国になるが はたしてどうだろうか。 書紀に この長峽という文字が出てくる箇所は全部で三ヶ所しかない。 その中で二ヶ所は ここで採り上げている 巻第9の神宮皇后の項にある 「・・・活田(生田)長峽國・・・」と 先述の「・・・大津渟中倉長峽・・・」であり 他の一ヶ所は 巻第7の景行天皇の項にある「・・・豊前長峡縣・・・」だ。

 活田(生田)は現在の神戸市兵庫区の生田神社の位置だから 確かに山と海に挟まれた細長い地形である。 では 豊前県はどうだろうか 書紀では 景行天皇の一行が 現在の山口県から瀬戸内海沿いの福岡県に入り 北九州市 京都郡苅田町 行橋市 築上郡築城町などを通って 大分県に向う途中 長峡縣(福岡県行橋市長尾か)に行宮を立てて休みそこを京(京都郡)と名づけたとある。 また 「碩田国(オオキタノクニ) すなわち 現在の大分に着いたときは 「地形は大きく美しい」と表現されている。
 
 現在の地図で見ると 北九州市から京都郡苅田町までは確かに山が海に迫っている。 でも 行橋市に入ると 長峡川 今川 祓川が海に流れ込み平地も広がっているが 総じて見ると 山と海 山と山に挟まれ その幅が5km余りだ。 長いや 狭いの表現には 主観が入っているが 書紀の豊前国の場合も 細長い地形に長峡という文字を使ったと見てよさそうだ。 そうすると 「渟中倉長峽」の長峽は 現在の神戸市であってもおかしくない。 

③神戸の住吉の前に 大阪に住吉があった
 そもそも 書紀に この「渟中倉長峽」が出てくる箇所は 神功皇后が三韓を従わせて大和へ戻るときに 神功皇后の子供(後の応神天皇)が王位を継承することを恐れた異母兄弟の麛坂王(猪に襲われて死亡)と忍熊王が謀反を起したところに出ている。 それをかいつまんで述べると 次のとおりになる。

 忍熊王軍は 神功皇后の帰還を襲って討たんと播磨の明石に陣取る。 それに気づいた神功皇后軍は 明石海峡を避けて 鳴門の渦潮に手こずりながら 淡路島の南を通って武庫の港に帰還し 広田神社 生田神社 長田神社の位置に陣を設け 順次明石に向けて距離を縮めて 忍熊王軍に圧力をかける。 不利を覚った忍熊王軍は住吉に退却する。 すると 神功皇后軍は 今の和歌山県の日高・小竹と南からの攻撃態勢をとる。 忍熊王軍は宇治に退いて陣取る。 神功皇后軍は 武内宿禰と武振熊王が率いる兵が 山城方面から宇治川の北に出て 戦闘が始まる。 忍熊王は 近江の逢坂で追いつかれ 狭狭浪で斬られ瀬田の渡りで死亡する。

 この忍熊王らの謀反の中に 明石から住吉に退却する とあるが この住吉は その後 宇治 逢坂 瀬田と移動経路からみても 神功皇后軍の勢力圏内の神戸の本住吉神社がある位置ではなく 現在の大阪の住吉区付近に違いない。 
 では 仮に「渟中倉長峽」の「長峽」が 現在の住吉大社地域だとすると 神功皇后軍の勢力圏内になるから 忍熊王軍が住吉に退却したとき わざわざ和歌山県の日高から迫る必要性は無いなずだ。 ということで 「渟中倉長峽」の「長峽」を難波と推定することはできない。 ここは やはり 神戸市の本住吉神社の地域に「渟中倉長峽」はあったと見る方が理屈から言って正解だろう。 また 「大津の渟中倉の長峽・・・」の大津は難波でなく 武庫川から西へ向っての港であったと見る方がよろしいかと思う。

 ただ 忍熊王軍が住吉に退却したことから推して 神戸市に筒男(住吉)三神を祀る以前から 現在の大阪に住吉があったことになる。 したがって 本住吉神社記に 「大阪へ遷すモトの住吉 と言うことで 本住吉神社と本の字を宛てたのであろう」 とあるが この考えは成り立ちそうにない。

注:この神功皇后の項では その実在・架空を問わないが 記述がリアルであることから見ると モデルになる話があったのだろう。 
 また 書紀の記述には 忍熊王軍が明石から住吉に退却した後に 神功皇后軍が明石で待ち構えているので航路を変えた話が出てくるように 時系列で話を追うと 理解しにくい。 書き順が前後していることに注意が必要かと その道の素人には思えた。
 
 
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