<航路と交易の推理>
キイワードは 臥薪嘗胆 南船北馬 


  ・肉眼でとらえられない中国大陸へ 危険を冒してまで行くには動機が必要 
 
・動機がなければ行かない(縄文人は行ってない) 弥生人はあったから行った

 ・
歴史上 動機をもっていたのは 越を仇敵とした呉人だけ 臥薪嘗胆 
 ・仕返しのため 越の動静を把握 資金 兵力(人数)確保のために
交易を手段

 
・交易には 取り扱い品と量が絡む 集荷には日本列島内での交易が必要
 ・この時代に 列島内交易の痕跡として安曇族は アヅミ地 シカ地の実績を残した

 ・安曇族は 海を知っていた 船をもっていた 航海術を身につけていた
 (南船北馬 
 ・余禄:航路開発で失敗を繰り返し  対馬海流に日本海へ流され 地理情報を蓄積  
     (後 アヅミ地の開発に役に立つ)

 ・
だから 
航路を開発したのは安曇族  
 ・
動機のエネルギーは 時間とともに薄れる 渡来初期の呉人がもっとも大きかった 
 
だから その時代は BC5世紀


 ・といっても 史実記録は AD57年に奴国の使者が洛陽(直接)まで行ったことだけ
 ・このとき アポイントはとっていた とらねば会えない  

 ・光武帝は 
奴国の情報を掌握していた 
 ・
国益になると判断したから金印を授け冊封した

 ・奴国王としては 交易の公認という 目的があるから出かけた 
 ・奴国と光武帝の間で 情報の
仲介した人がいた 

 ・後漢は商人を重用していた  その役は
政商 
 ・政商は 
奴国と取引があったから 仲介した 
 
・奴国の使者は 取引していたから言葉が通じた
           
 
 
・以上が AD57年以前から交易していた根拠 


まとめると
 「委奴」の読み方は別にして 
   金印授受の対象国を 交易から判断すると


 ・動機とエネルギー: 呉人には 臥薪嘗胆で動機あり 南船北馬で足あり    
 ・交易は物と量:   日本列島内での交易がないと 対漢交易は成り立たない  
 ・交易の実績:    安曇族ゆかりのアヅミ地 シカ地は 日本列島内交易の証し

 
 ・交易と航路開発からみて 漢委奴国王は 安曇族の長以外に該当者なし


中国大陸との交易
   
  主要交易地は
琅邪 その理由
   1 
越の宰相范蠡が 呉を亡ぼすと斉に移っていた (商人に転職して巨万の富を得た)
   2 BC468年 覇者越が首都を斉の琅邪に移動
   3 斉は 絹・塩・鉄製品などを扱う商工業立国
   4 
黄海暖流の流れ着く先
  
  主要輸出品(乏しい産物を出して 進んだ技術を入れる)
   1
  呉では製塩が盛んだったから 志賀島でもつくれた 
        海塩(杭州湾に面する地 前漢時代塩官の在地)
        海水と燃料と容器さえあればできる簡単な技術
   2 干しアワビ 中国大陸内陸部にとっての珍品(俵物三品の一つ イリコ・フカヒレ)
         製法は 茹でて天日や火で乾燥させる 中国大陸では合肥(ガツヒ)が集散地

   3 製法が入ってきて 
絹織物(BC2〜1世紀?)  (魏志倭人伝に出てくる)
                 
水銀?
  輸入
   1 青銅・鉄の金属製品 スクラップ 製造技術 
   2 主要作物 (五穀の種など)
   3 人材 農耕民(BC363年 越の滅亡までは兵力) アヅミ地へ入植 
<瑞穂の國へ>
          徐福集団など 工人(技術者)                   
<ものづくりへ>
         商才がある斉の商人センスとノウハウ
                 <博多商人へ>


日本列島内
   内陸地 生理的必需品の 動物性たんぱく質の乾燥魚介類をを求める        
   沿海地 漁具素材の鹿角 製塩燃料の薪 生活必需品の黒曜石などを求める

   海・河川の水路を伝って 得意の船を操って 
内陸と沿海の中間に入り(縄文系弥生人商人と競合) 
   海の産物を山へ 山の産物を海へ 
内陸部の地理情報蓄積

   斉との取引で身に着けた安曇族は 縄文商人に競り勝
   入植者から 返礼 生産物の一定割合を配当として受けとる (持ち株会社)
   
   時代が進むと 金属製工具使用で製作した耕具 さらに
鉄製農耕具を販売 耕作面積の拡大
   これらの利益は 次への投資 


   
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