志賀海神社の遷座

  <方 向> 綿津見神は南面
   志賀海神社から鳥居を通して見える方向は おおよそ南(68mの愛宕山 当時は島)
   室見川を中心にして 現在の西区・早良区を向いている  

   奈良の平城京 京都の平安京 鎌倉の八幡宮も同じく 南面している
   神・天子は南面 すなわち 玄武に位置する 朱雀は貢物を捧げる位置関係で北面
   玄武を東の青龍と西の白虎が護衛し それらの間に水があって 風水地相の位置関係


  <背 景> 経済活動の中心が移動
   室見川上流山麓地(再出)から水田開発→経済の中心が早良区・西区へ移動(奴国)
   水田稲作地の拡大 交易取扱量の増大

   鍛鉄(船釘)鋼鉄(鋸)の出現→板をつくり接ぎ準構造船・構造船の建造技術(BC2世紀)
   船底形状:U字型の平底→V字型の尖底になり 陸揚げ不可 
   フナクイムシ被害・カキ付着→海から河川へ
   


風水地相
綿津見神は 玄武(上座)から南面 奴国民は朱雀(下座)から北面


玄武
志賀島
玄冬
見下ろす
ガード ガード
西
白虎
能古島
白秋

青龍
西戸崎
青春
見上げる

朱雀
奴 国

朱夏

  <時 代> AD1世紀より前
   水田稲作地は 奴国 → アヅミ地 → 高樋遺跡・垂柳遺跡(青森県田舎舘村) の順で広がる
   高樋・垂柳遺跡の水田は AD1世紀以前の洪水で埋没 遺跡となった

   その水田跡に 寒さに強い熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカ交配種の稲
   船底形状がV字型になった年代を考えると 
   遅くとも AD1世紀以前に
奴国の経済中心は室見川流域へ移っていた

金 印

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