信濃に宮殿建造計画
日本書紀(宇治谷孟訳)巻29下の天武天皇の項に 683年12月に 天武天皇は「都城や宮室は一ヶ所だけということなく 必ず二・三ヶ所あるべきである。 それ故まず難波に都を造ろうと思う」とあり また 翌684年1月に 「三野王・小錦下釆女臣筑羅らを信濃に遣わして 地形を視察させた。この地に都を造ろうとされるのであろうか」とある。 この記述から 信濃が宮殿建造候補地にあがっていたことがわかる。 つづいて 同年4月には「三野王らが信濃国の図面をたてまつった」とあるから どんな図面かは別としても 信濃に宮殿を造る計画が具体的に進められていたことは史実だ。
ところが この684年10月に大地震が起きて各地に被害が出ている。 四国の伊予の道後温泉が埋もれて湯が出なくなり 土佐では田畑約一千町歩が埋まって(陥没?)海になり 高潮が押し寄せて舟がたくさん流出したとある。 また 伊豆島の西と北の二面が三百丈あまり広がって もう一つの島になったなどの記述もある。 さらに 翌685年3月に 信濃国に灰が降って草木がみな枯れたという 浅間山が噴火した記録と 同年4月に 紀伊国の牟婁温泉(湯崎温泉)が埋もれて湯が出なくなったという記録が綴られている。 信濃国の図面ができて宮殿建造計画が本格的に進められていたであろう時期に 日本列島では半年間ほど天地異変の凶事が起きたのだ。
この地震・津波・火山爆発という天地異変の凶事がつづいたことは 新たな宮殿建造に水を注す形になったことだろう。 その上 同685年8月には 天武天皇御自身が病気を患われている。 結果として信濃に宮殿は建造されていないことから 一連の凶事を契機に 信濃国の宮殿計画が中止になったと考えてもおかしくない。
だが 同685年の10月になると 天武天皇は「軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣わし 行宮(あんぐう 又は かりみや仮宮)つくりを命じられている。 「おそらく束間温湯(つかまのゆ:浅間温泉か)においでになったのであろうか。」と書紀にある。
信濃宮殿建造経過 |
年 月 |
天武天皇 |
684年1月 |
地形図作成命令 |
〃 4月 |
地形図完成
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〃 10月〜
685年4月 |
天地異変 |
〃 8月 |
病気 |
〃 10月 |
行宮建造命令 |
686年 5月 |
重病
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〃 9月 |
崩御 |
繰り返しになるが 書紀から信濃宮殿建造にかかわる事項を拾い出して その経過を右表に整理してみると 行宮建造の命令を出されたとき 健康が回復されていたか回復されて間もない時期にあたる。 いずれにしても 健康がそれほどすぐれていたとは考えにくい。 大和から松本市の浅間温泉まで 現在の道路地図で調べると 約430kmある。 たとえ1時間に5kmの速度の馬に乗ったとしても86時間は要する行程であるから 睡眠や休憩時間を考えて 1日15時間進んだとすれば 5.7日 馬の足がもっと早いとしても ざっとみて4〜5日ほどかかる道のりである。 行宮建造の工期がどのくらいであったかはわからいが 信濃の行宮ができたとしても 冬の季節の信州行幸を避けたとすれば 5月に重病を罹られた天武天皇自身がこの行宮を使われた可能性は小さい。
ただ 実際 浅間温泉に行幸されたか否かはともかくとして 書紀で注目されるのは 天武天皇は 信濃に行宮づくりの命令を下す前に信濃へ行かれた形跡がないし 温泉場だったら近場にもある にもかかわらず 信濃に執着されている。 何故だろうか。 以下 その謎解きを試みる。
新羅侵攻を想定して対応
663年の白村江の戦で日本と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に大敗した後の日本の対応について 「松本清張の日本史探訪」(松本清張 1999年角川書店)の中で 梅原猛は 日本は唐や新羅による侵攻の脅威に 膨大な費用をかけて防備を固めている。 都を大和から近江(大津市)へ遷したのも いざというときに 船で脱出するのに便利なためだ と述べている。
現代でもそうだが 一度権力を手にした人は その権力を失うことに想像以上の恐れをもつようだ。 大和朝廷も防人の配置や山城や水城を築いたりで国民に大きな負担を強いていることは事実である。 権力と無縁な一般国民にしてみれば たとえ 唐や新羅に侵攻されても 支配者が交代するだけで 大きな負担という点では そう変わりないわけだから 恐怖心はそれほどなかったはずであるが 大和朝廷としては あらゆる手立てを考えて 侵攻に備えたのだ。 唐にしろ新羅にしろ海を渡って来るわけだから 記録として明記されていなくても 港の防備も怠っていないはずだ。 以下 新羅侵攻を想定して大和朝廷が採った防衛策に関して考えられることを列記してみた。
1 短期間に創建
神功皇后が 実在の人物か 架空の人物かについて ここで問わないとしても 対馬・壱岐・福岡・下関・神戸・大阪・河内長野市にある住吉神社の創建は 神功皇后が三韓出兵の帰路に寄港したなど神功皇后にまつわる由緒がある。 そうすると これらの住吉神社は 限られたある一定の短い期間に創建されたことになる。 言い方を変えると 建造物の建造は別にして 住吉神社は 各地で一斉に創建されたということになる。
2 新羅船の経路
もし 新羅が日本列島に侵攻して来ることを想定した場合 その経路は 七世紀の朝鮮半島からの使者が通った経路をたどる可能性が大きい。 そうすると 朝鮮半島から奈良盆地の大和朝廷に至る経路は 船を使って 前述の対馬市の住吉神社から大阪市の住吉大社までを結んだ一連の海を途中寄港しながら進んでくることになる。
3 寄港地は川
七世紀に港といっても 現代のような人工構築物の防波堤や岸壁があるわけではないから 比較的波が静かな入江の中に自然の岩礁地と砂浜がある水面を利用するわけだ。 その場合 船底が平らな船は砂浜に上げることができるが 船底がV字型に尖った船だと砂浜では横転するから上げられない。 かといって 自然の磯は岩礁地帯だから 船が接岸できる岸壁はない。 新羅船が攻めてきても 海から上陸するとすれば 岸から離れた沖に船を停泊させて そこから水に入って泳ぐか 歩くか 小船に分乗して浜に上がるかのいずれかになる。 ただ 静かな入江といっても 大時化が来れば水面は荒れ 船が流されたり横転する危険がある。 だから 安全に船を接岸するとなれば 海に流れ込んでいる川に入って川岸を利用することになる。
そう考えると 当時 日本列島と朝鮮半島を航行する船は 対馬海流を横断し 向かい風でも間切って遡れる船底が尖った船を使っていたはずだから 川を港として利用していたことになる。
(注):上記に関わる細かいことは 拙著「安曇族と徐福」に記した。 なお 井上靖は 史実を丹念に調べて書く小説家だが「額田女王」では 白村江での敗戦の船が博多港に着く場面などで 近世ないし現代の船着場を思わせる記述になっている。 勇み足だろう。
4 住吉神社は大和朝廷の基地
新羅の船が大和へ向って侵攻してきたとしても 海には必ず時化が来る。 その荒天を避けるためにも また 瀬戸内海のように潮の流れが速くしかも数多くの島がある海峡では 夜間の航行は無理だから 必ずどこかに寄港しなければならない。 船底が尖った新羅船は 川に入ることになる。
663年の白村江の戦で日本軍は 錦江を遡ったところで陸上から弓矢の挟み撃ちで敗れている。 だから 当時の大和朝廷は この苦い経験を活かして 新羅船が寄港する機会に 弓矢で攻撃することは考えていたはずである。
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防人の出身国地(黄色)と住吉神社(赤★)
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狭い川に入って来る船は 両岸から弓矢を使って攻撃しやすい。 対馬市の住吉神社については地図上の調べではわからないが 壱岐市だと幡鉾川と谷江川 福岡市だと那珂川・御笠川・室見川 下関市だと綾羅木川 神戸市だと住吉川 大阪市だと大和川といったように 先に示した住吉神社はいずれも その近くに川が流れている。 だから 対馬市から大阪市まで一連の住吉神社が 神事を執り行うだけでなく 大和朝廷の防御及び攻撃基地の任務も担っていたと考えても間違ではないだろう。
5 防人出身地が東国の理由
滝川政次郎の「住吉大社と防人」(『住吉大社事典』真弓常忠編 2009年図書出版会)によると 万葉集の防人の歌の作者は 東海道の遠江・駿河・相模・上総・下総・常陸 東山道(注)の信濃・上野・武蔵・下野の10国の人だから 北陸道の諸国・東海道の尾張以西 東山道の美濃以西 陸奥の国々から防人は出ていないそうだ。
この防人の出所が東国に限られ 西国から出ていないことについては諸説あるが 諸説は諸説として 新羅船が日本列島の河川に寄港したり そこから上陸したりすることを想定した場合 次のことが考えられる。
海から離れた内陸の国や朝鮮半島から離れている国は 新羅の侵攻地になりにくいが 西国や日本海に面した国の河川は 新羅船の入港・上陸地の対象になる。 それらの諸国は その国の地元の人が防人の役を務めるから 他国へ人手を出すわけにはいかない。 そこで 入港・上陸の対象にならない内陸の国や 遠隔地の人を対馬や壱岐のように人が少ない地に派遣して防人に当たらせた。
(注):滝川によると 甲斐から派遣された防人の歌は万葉集にないそうだ。 その理由について 「甲斐の国の防人の歌が万葉集に載せられていないのは その歌が拙い歌ばかりであったからでありましょう。」と述べているが 甲斐の防人の歌だけが拙いと言うのは信じられない。 むしろ どうやって防人の歌が保管されていたのかわからないが 保管方法に問題があって そっくり紛失したと考えた方がよさそうだ。 いずれにしても ここでは甲斐の国の人も防人として派遣されていたことだけを採り上げる。
6 費用対効果が大きい防人配置
新羅侵攻に 山城・水城などを築いての防備には 人と時間と経費がかかるが その点 防人は 自国から集合地の難波津までの経費は自分持ちだし 弓矢も命令で定めた量を揃えて持参させるし さらに 配置先での食糧も自分たちで生産するわけだから 大和朝廷としては 山城・水城を築くことに比較して経費も時間もかからない。 それに 日頃は見張が主な用務で 実戦でも白刃を交えての戦ではなく 河川を遡上してくる新羅船を陸上から弓矢で攻撃する戦だから それほど軍事訓練も要しない。 したがって 他の防備対策に比べ 費用対効果が大きい。
7 住吉三神のために戦う
繰り返しになるが 新羅船の上陸を阻止するには まず 津=港=川で効率よく防備する。 住吉神社の管理者(神主)は津守氏であるが この津守姓が津を守る職務名から付けられたことはわかる。 そうすると 住吉神社は 津すなわち川に入ってくる新羅船を防人などを使って阻止する任務を担っていたことになる。
戦には 何のために戦うのか 誰のために戦うのか といった大義名分が必要である。 故郷を離れて他国を守る防人としては 自分のためではないし 家族のためでもない 故郷のため 国家のためという意識もないはずだ。 だから その士気を高めるためには 神のために戦うのだという意識を植え付けねばならない。 住吉大社の管理者の津守氏は 海なし国からも徴用されて難波津に集ってきた防人たちの頭に 住吉三神の底・中・表筒男命を崇め その偉大さを刷り込む役も担っていたのだろう。
8 住吉神社(津守氏)は大和朝廷の親衛隊
書紀の神代上に「底筒男命・中筒男命・表筒男命は住吉大神である。 底津少童命・中津少童命・表津少童命は阿曇連らがお祀りする神である。」とある。 この部分は古事記の記述も同じで 筒男三神は住吉の神と書いて津守連の名は出ていないにに対し 「綿津見神は阿曇連の祖神」とある。
このように 綿津見神の子孫は阿曇連と書いて 筒男三神の子孫は津守連と書いてない理由は 次のように現代の会社になぞらえて考えると理解できる。 阿曇氏は 創業者である阿曇家が全株式を所有して 海運・海商分野を得意とする海神社という株式会社を 同族で代々経営している。 一方の津守氏は 大和朝廷が全株式を所有する住吉神社という株式会社に セキュリティシステム売り込みの手腕と絶大なる信頼を買われて代々雇われて経営に従事している大和朝廷の大番頭に当たる。 大番頭を言い換えると親衛隊という大役である。
信州に親衛隊の住吉神社を創建
上の 新羅の侵攻に備えに関する8項目の記述を総括すると 水際作戦として 朝鮮半島から大和朝廷へ至る寄港地の要所々々に 親衛隊の津守氏が率いる住吉神社を創建し 住吉三神を守る大義名分で防人などの兵を配置した防御体制をとった。
だが 大和朝廷としては 水際作戦だけの防備では安心できず 上陸された場合に備え 山城・水城を築き さらに それでも防ぐことができず 陸上戦になって大和にも危険が及んだ場合を想定して 天武天皇から信州に宮殿を建造する計画が出されたと 考えることもできる。 そう考える根拠として 現段階では次の三つを示しておく。
1 新羅侵攻の対象外で大和朝廷に最も近い位置
7世紀に 日本列島の地理・地形をどうとらえられていたかはわからないが 徴用した防人を新羅から侵攻されそうにない安全地帯から選んでいるところや 先に述べたとおり書紀に 信州の地形を調べて図面がつくられている例などを見る限り 機能的にかなり高い精度の図面をもっていた可能性がある。 そういう地理情報の中で 海から遠く離れている信州は 防人の出身地で すなわち 新羅からの侵攻が届かない地としては大和に最も近い位置にあることも承知していたであろう。
2 昭和時代にも信州に大本営移設計画
この7世紀の大和朝廷がとった考えと相通ずる考えが 1250年ほど後にも出されている。 それは 太平洋戦争の終戦間近の1994年(昭和19年)に 連合軍が上陸して本土決戦となった場合 東京では防衛できないと考えて 長野市松代に大本営を移そうという計画である。 実際 松代の建設工事は進んで4分の3ほど出来上がったところで終戦となり 大本営として使われることはなかった。 その松代が選定された理由として 海から遠いことや岩盤が固く10トン爆弾にも耐えうるといったことがあげられている。(右下写真参照)
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左経過説明(拡大) 右現在観測室入り口
2010.09.11撮影 |
3 松本平は最適の地形
天武天皇時代 弓矢を使った戦争で 敵を攻撃しやすいのは 軍隊が縦に細長くなって進軍しなければならない谷間や川など狭い地形が長くつづくところを通るときである。 その点 信州は善光寺平・佐久平・諏訪平・松本平・伊那谷など信州に入るには 川か川沿いの狭隘なところを通らざるを得ない。 中でも松本平は 太平洋側からだと 木曽川に沿って上って伊那谷を通るか 天竜川を上って諏訪経由で入るか 日本海側からだと 後世ボッカが糸魚川から松本へ物資を運んだ細い山道を通るか 信濃川・犀川をさかのぼる4本のルートしかない。
したがって 信州でも最も奥に位置し 高い山々に囲まれた松本平は 大和朝廷が防戦あるいは形勢の逆転を計るのに最適の地形と言えよう。
安曇野市の住吉神社は日本史の鍵
ここまで考えてくると 天武天皇が 信州の松本平に宮殿を築く考えをもったことが理解できる。 その新たな宮殿建造は 何もハードウエアの建物だけで済むものではない。 侵攻してきた新羅との戦だけでなく 日本列島内で朝廷を脅かす謀反にも備えるにも 信頼がおける親衛隊を駐屯させないと安心できない。 宮殿建造の前か同時に ソフトウエアの親衛隊を配置して防備体制を整備しておかないと宮殿は機能しない。
天武天皇の構想にあった信州の宮殿建造は おそらく天地異変の影響もあって 中断されたのであろうが 行宮はつくらせている。 このことから考えても 信州に精鋭な親衛隊の核となる住吉神社を 684年の天地異変以前に 宮殿建造に先行させて配置した可能性はある。 その住吉神社は 大和朝廷に信頼を得ている津守氏か その傘下が創建したのことであろう。 これで 今日 海から遠く離れた信州安曇野に海の神様である住吉三神を祀る住吉神社が存在している理由が理解できるように思うがいがだろうか。
さらに この考えを進めると 小穴(前掲)が「(安曇野市の住吉神社の)社伝によると 当社はかって烏川谷の右岸に聳える角蔵山の尾根の住吉麓にあったといい 現在もそこへ宵祭のため神官・氏子総代が登頂する。」と紹介しているが この角蔵山麓に注目すると 先に示した書紀の「都城や宮室は一ヶ所だけということなく 必ず二・三ヶ所あるべきである。」という都城や宮室は 宮殿建造だけでなく都全体 いわゆる首都機能構想とも受け止められてくる。
松本平(盆地)の全体地形に注目すると 角蔵山麓は 盆地のほぼ中央部にあって 背面は屏風のような北アルプスが完璧として塞ぎ 前面は左手から烏川や高瀬川 右手から梓川や奈良井川が流れて犀川に合流し これらの河川が三方からの侵入を妨げる地形になっている。 海から遠く離れて 山と川に囲まれて広がる安曇野に親衛隊が駐在している構造を思い浮かべると 奈良盆地よりもより安全・安心な都が築けそうに思える。 そうすると 天武天皇が命じた浅間温泉への行宮づくりは 単に湯治や物見遊山的なものでなく 三野王が提出した図面を基に練った首都づくり構想のために現場を自分の目で確かめる視察が目的だったのかもしれない。
以上のとおり 安曇野にある住吉神社の社領域と住吉の名がついている現在の地名との関係を調べて 社領域の問題を解き明かすことはできなかったが 創建が神功皇后に由来する住吉神社と大和朝廷の関係が少しわかってきたように思えることと 安曇野市の住吉神社は 684年に大和朝廷の親衛隊基地として創建された可能性があるということ が この項の結論になる。 ただ 蛇足になったが 安曇野市の住吉神社を調べているうちに 本来根拠をもって推理(考察)して行くはずが 行宮づくりと首都機能づくりを絡めて考えるなど根拠が薄く想像の域にまで近づけてしまった。 言い訳をすると 安曇野市の住吉神社が 日本の歴史を解き明かす鍵として注目に値するように見えるからだ。
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