安曇族と住吉神社-2
 「安曇族と住吉神社-1」で書いたように 海の神には 安曇族系神社の祭神である綿津見神と 住吉(津守氏)系神社の祭神である筒男命の2系統あるが この必然性が おぼろげながらわかってきた。すなわち あらためて航海という観点から海の神を見ると 太陽と北極星 航路と港(津) 天文航法と地文航法といった 異なる二つの事象が対で現われる。この二つ事象と海の神を2系統に分けたことは無関係ではなさそうだ。だから いろんな視点から調べれば なぜ 海の神に2系統あるのかという答えが見つかるだろうと 少し先が見えてきた思いがする。

 ただ 答えは 机上で文献などの資料を基に頭の中で こね回して出てきたものでなく 確たる根拠を示さねばならない。 だから 実際の調べは 今後 それなりの時間をかけて取組むことになるが 調べるに当たって 現時点で考えられる問題点や視点を少し列記しておく。 もっとも これらは いわば 想像の域を脱していないが 「空想より科学へ」 想像を掘り下げながら 今後 追加や修正が多々加えながら 進むことにする。 

(1) 2系統の海神は 時代を前後して出現
 筒男命を祀り住吉系神社を管理してきたのは津守氏で 文字通り津(港)を守る すなわち 船が停泊する港の安心安全を守る役の職名が氏名になったのだろう。 
 ところで 津といっても 平底の船を砂浜に引揚げていた時代は たとえ海が大荒れになっても 船を陸上に引揚げておけば危険は小さいわけだから 津の安心安全はそれほど必要でなかったはずだ。 だが 船底の形状が平底から尖底に変わると 船を引揚げると横転するから水面に浮かべたまま停泊することになる。 だから この水面停泊が始まってから津守 すなわち 港の管理や神に安心安全を願うことが始まった と考えてよさそうだ。

 では その尖底船の出現はいつ頃からだろうか。 答えは 鋼鉄製の鋸 鍛鉄製の船釘が使えるようになって 板を接いだ準構造船や構造船が造れる時代以降ということになる。 さらに その鉄製品の出現は BC3世紀末だから 住吉系神社の創設は それ以降ではないか。 そうすると 安曇族系神社が 安曇族の活動開始のBC5世紀だとすると 200〜300年ほど後の時代になる。 以上の掘り下げていく工程を簡単に表わすと 下のようになる。  
 竹筏・刳船の双胴船 → (BC5世紀〜)東シナ海の航海 → 綿津見神 → 安曇族 → 安曇族系神社創設
 (BC3世紀末)鋼鉄製鋸 鍛鉄製船釘 → 尖底船 → 津(港) → 筒男命 → 津守氏 →  住吉系神社創設
 
 BC5世紀以降の安曇族系にしろ BC3世紀末以降の住吉系にしろ 実際に 神社ができるのは それなりに時代が経過した後だろうが 両系神社が同時代に創設されたものではない と言えそうだ。

(2) 津(港)は船だけでなく 人も休養
 津とは港で船の停泊地と書いたが 弥生時代や現代と時代を問うことなく 長い間 危険にさらされながら航海してきた人たちが 港に着くと安心することには変わりない。 そこで体の疲労を取り 気力を回復させなければならないことも変わらない。 自然の地形を利用し 人工的な防波堤がない時代の津(港)の中で 風や波に耐えることは大変なことで おそらく 水面に停泊中の船が転覆や沈没するなどの事故も起きただろう。 
 
 そんなとき頼りにするのは 神様であり 陸上で休養をとることである。 それに必要な施設で発展したのが神社であり また 休養に関連する諸施設である。 神社は神を祀る厳かな聖域であるのに対し 休養施設は 歓楽の場でもあるから 両施設は あるていど地理的に離す必要性もあっただろう。 このように考えてくると 現在の住吉神社が港(津)から少し離れた位置に設置されていることも理解できる。おそらく歓楽の場は 津(港)の近くにあっただろう。 

(3) 地文航法の航路沿いに住吉神社
 現在 全国に筒男三神を祭る住吉神社は全国で600社ほどあると Wikipedia は記し その他の書などに2000社ほどあるなどの記述もあるように とにかく数が多い。その中で Wikipedia が挙げる主な住吉神社(24社) 谷川健一が編集した「日本の神々」全13巻(白水社)に記載されている住吉神社(10社)から Wikipediaと重複した社を除いた28社について その由緒などから創建年代を調べた。 その結果 創建が最も古いのは 神功皇后の三韓出兵に関わる年代になる。 それに該当する住吉神社は下表の7社だった。

 なお 正保3年(1646)創建といわれる東京都中央区佃島の住吉神社 雄略8年(464)の明石市魚住町の住吉神社などのように 弥生時代とかけ離れた年代の創建や 広島市中区の住吉神社のように他の住吉神社からの勧請で創建された社 あるいは 大阪府交野市の住吉神社のように社名を改称して住吉神社と称するようになった社などは 除外した。
 また 安曇野市の住吉神社のように 吾妻鏡に記録が出ていても それ以前の創建年代がわからない社は 今後の課題として ここでは外した。
社 名 所 在 地 備 考
1 住吉神社  長崎県対馬市鴨居瀬 現在
2  長崎県壱岐市芦辺町
3  福岡市博多区住吉
4  下関市一の宮住吉
5 本住吉神社  神戸市東灘区住吉宮町
6 住吉神社  大阪府河内長野市小山台町
7 住吉大社  大阪市住吉区住吉
 
 これら7社が在る津を航路で結ぶと 『 対馬 ⇔ 壱岐 ⇔ 福岡 ⇔ 下関 ⇔ 神戸 ⇔ 大阪 』となり 神功皇后が実在したのか 架空の人物か 実際 三韓へ出兵したのかなどは別にして 想定される神功皇后の三韓出兵のコースとほぼ重なると言っていいだろう。 このコースだと 星を使っての夜間航行はできないから 太陽が出ている昼間 陸地を見ながらの地文航法での航行になる。 すなわち 日が落ちる前に 津へ入る。 それらの津に 津守を配置いて管理し 主要津に住吉神社を創建したものと 現時点では 考える。

(4) 神功皇后の実年代は 西暦紀元前後?
 宇治谷孟の全現代語訳 「日本書紀」(講談社学術文庫 1988年)の付表に 関連年表があり 西暦前(BC)660年に神武天皇が即位したとして 以降 歴代天皇の即位年代と その西暦が載せてある。 これによると 実在も定かでない神功皇后が AD201〜269年の間 即位していたことになっている。  この天皇即位暦と西暦との関連は つぎの根拠によるそうだ。
 
 Wikipedia によると 神武天皇がBC660年に即位したとする根拠は 明治時代の歴史学者の那珂通世が 日本書紀の年代を讖緯説(シンイセツ)から 神武天皇の即位年をBC660年としたことによるそうだ。 この讖緯説とは 中国の考えで 干支は60年周期で繰り返すが これを元(ゲン)とし 21元を蔀(ホウ)として この蔀に当たる年に すなわち 1260年の間隔で 王朝の交代などの国家的な革命が起きるという説である。 なお この讖緯説は 隋の煬帝が使用禁止にしている。
 那珂は 601年推古天皇が斑鳩に都を置いた辛酉(シンユウ)年を基準に 讖緯説に沿って それ以前の蔀(1260年)目の年を神武天皇の即位年に当てたということだそうだ。 だから 神功皇后の即位年代も 実年代とは言えない相対的な年代ということになる。  

 これから述べることは 眉に唾を付けて読んでもいい内容だが たとえ神功皇后が実在しなくても 三韓出兵が実話でなくても 神功皇后に絡ませた住吉神社の創建の年代を推理できる手がかりとして 今後 いろんな視点からいろんな分野の事象を取上げていくが その中の一つとして受け止めて欲しい。 
 
 日本書紀の垂仁天皇の年代に 田道間守(たじまもり)の話が出ている。 これは 不老長寿の実を探しに常世国へ出かけて 10年かけて橘の実を入手して帰還するが 一足遅く 垂仁天皇は崩御されていたという話だ。 拙著「安曇族と徐福」に徐福の話と重なると書いた。即ち 垂仁天皇=秦の始皇帝 田道間守=徐福 不老長寿の薬=不老長寿の実 探索期間9年で天皇崩御=探索期間9年で始皇帝没 と言った点で 重なっていると述べた。

 この重なりから見て 「日本書紀」の編集者は 司馬遷の「史記」を読んでいたものと考えていいだろう。そうすると 徐福が船出して中国大陸を離れたのがBC219年で 始皇帝が没したのが210年だから 「日本書紀」の編集者は 垂仁天皇の命で田道間守が出かけた垂仁90年をBC219年に当て 垂仁天皇が崩御された垂仁99年をBC210年に当てた可能性がある。
 「日本書紀」に出てくる天皇の中で 実在は 応神天皇辺りからだろうという考えもあるように それ以前はわからない。 だが 「日本書紀」の編集者は 神武天皇以来 実在が確かな天皇までの間の天皇を想像し それを年代順に並べて それぞれの即位年代を示さなければならない。 この作業の中で 垂仁天皇と始皇帝の年代を重ねたとすると 垂仁天皇崩御後230年目に即位する神功皇后は BC210年後230年 すなわち AD20年に即位したこととなるが これにはかなりの幅があるとして 西暦紀元前後の年代に 神功皇后が即位していたと受け止めれば 神功皇后にまつわる住吉神社の創建も おおよそ西暦紀元前後になる。

 ところで 韓民族も日本民族と同じように紀元前後の記録をもっていないから 朝鮮半島が何時の年代から三韓と称されるようになったかはわからない。ただ 三国志の魏書
(注)に 朝鮮半島南部は 馬韓・弁韓・辰韓の三韓に分かれていると出ている。
 井上秀雄は「古代朝鮮」(講談社学術文庫 2004年)で この三国志の影響が強く 新羅統一以降の朝鮮のことを三韓と呼んでいたのだろうと述べているが これでも正確な年代はわからない。 それに 韓と名乗らない新羅が朝鮮半島南部を統一したのに わざわざ三韓と呼ぶのも納得できない。 そうすると AD57年に新羅が建国する以前から 漢民族は 朝鮮半島南部を三韓と呼んでいたと受け止めた方が素直だ。 
 
 ただし 「日本書紀」によると 神功皇后は 新羅を従わせたところ 高麗・百済も降伏したので これを三韓征伐としているが 高麗(高句麗)は朝鮮半島北部で漢民族と接する地にあるから 馬韓・弁韓・辰韓の三韓とは地理的に異なっている。
 「日本書紀」の編集に当たっては 663年の白村江の敗戦で 意気消沈している日本の士気を高めるために 朝鮮半島を征伐した記事を掲載したという説もあるように 三韓がどこにあるのかよりも 朝鮮半島を制圧したという記事を掲載したかったのだろう。 三韓と言っても 新羅と百済だけでは三にならないから 高麗を入れて三韓としたのかもしれない。ともかく 神功皇后が三韓出兵の年代が 新羅の建国以降であれば不自然ではないので ここでは 神功皇后の年代を西暦の紀元前後とみることもできますよ と言う結論にしておく。

(注):以下「堀貞雄の古代史・探訪館」より抜粋
 韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。( 韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、地積は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国なり。)

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