安曇族と住吉神社-3(下関市)
住吉神社は 川の近くにある 
長門一宮 住吉神社  
下段 左:拝殿 右:本殿
(向って左から住吉大神 以下
 建御名方命まで 左文記載の順)

 下関市の新幹線新下関駅から歩いて20分ほどのところに住吉神社はある。
 境内は 山口県と下関市の両教育委員会が文化財に指定している。その説明は 略次のとおり。

 「約9千平方メートルの境内に茂る樹木は 古来 神域として崇められ 保護されてきたもので 付近一帯の山地の植生と異なり 暖地性植物が多く 原始的植生を保持している。」


 また お祭神は 住吉大神・荒魂(主神) 応神天皇 武内宿禰命 神功皇后 建御名方命で 創建は AD200年に(昭和59年に 1784年前と記載 神武暦) 神功皇后により鎭祭された とある。

 
住吉神社の謎を解く綾羅木川と航路
(図をクリックすると拡大図)
先入観は恐ろしい
 現在 下関市にある主だった船着場の下関港や下関東港は 関門海峡も含めて瀬戸内海側にあるから 弥生時代も 下関に着けた船の乗組者たちは 瀬戸内海側から住吉神社へお参りしたはずだ と疑うことなく思い込んでいた。

 だが 住吉神社の現場に立つと 瀬戸内海方向の視界は 塞がれていて全然見えない。反面 住吉神社から新下関駅方面へは 道も緩やかに下っていて開けていた。 
 住吉神社を訪問した当日は ついでに寄っただけに 時間がなかったので 精査することはできなかった 現場で得た事を頭に入れて帰宅し あらためて地図を見た。 そこで わかったことが二つあった。
 それは 右の地図をクリックして拡大図を見ればわかるが 一つは 遠賀川の河口から北東にある遠見ノ鼻から 藍島と六連島を間に直線を当てると その延長線に 綾羅木川があること もう一つは その綾羅木川が 現在の新下関駅付近まで伸びていることである。

 この綾羅木川の近くに住吉神社があることをどう読むか。拙著「安曇族と徐福」で述べたように 川すなわち港(津)という考えを当てはめてみた。 福岡市にある住吉神社は那珂川の側にあったことは確認している。対馬・壱岐・神戸市・大阪市・河内長野市・安曇野市の住吉神社についても 地図上で調べてみた。 
 対馬の鴨居瀬にある住吉神社(後 雞知に遷座)には 川らしき川は見あたらないが 遷座先の雞知には雞知川がある。 壱岐の住吉神社には幡鉾川 神戸市の本住吉神社には住吉川 大阪市の住吉大社には大和川
 河内長野市の住吉神社には大和川の上流の天野川(大和川→西除川→狭山池→天野川)(注) 安曇野市の住吉神社には信濃川の上流の犀川(信濃川→千曲川→犀川→梓川)があった。
 対馬をはじめ これら住吉神社にかかわる川について 船の航行・係留の可能性などの確認は 今後の課題とするが 現段階では 海岸に係留施設がない弥生時代に 河口や川が係留に適していたことは十分考えられる。 それをもう少し進めると 博多湾を出港して瀬戸内海や日本海へ向う船は 途中 遠賀川などの川に停泊しながら 遠見ノ鼻を過ぎるところで 藍島と六連島を見て真っ直ぐ綾羅木川に向けて航行し 綾羅木川に入って停泊し 住吉神社での参拝を済ますと 瀬戸内海方面は 潮時や風をにらみながら 彦島を右手に関門海峡へ入り 島や岬を見ながら 日本海方面は 右手に陸地を見ながら航行したことが想像される。
住吉神社と和布刈神社と綾羅木川の
位置関係
(図をクリック拡大写真)


 先にも書いたように 先入観では 遠見ノ鼻を過ぎると 北九州市沿いに関門海峡へ向う航路を思い描き 綾羅木川に向うことなど考えられなかったが あらためて 弥生時代の停泊地を考えに入れると 綾羅木川と住吉神社の位置関係が理解できてくる。 
 右空中写真は google earth から転写した。瀬戸内海側から住吉神社へ行くには 山を越えねばならないが 綾羅木川をさかのぼれば 近くまで行ける。
 住吉神社は 南面して鎮座していた。 和布刈神社は 関門海峡に直角に交わる北西北の方向を向いて鎮座していた。
 
追記(補足訂正)
 ところで これも下関市の住吉神社を訪ねた後に 「日本の神々」(谷川健一編集 白水社)第2巻の住吉神社(長門=下関市)を読むと 綾羅木川と住吉神社について 次のように書いてあった。
 「日本書紀」に 住吉三神(表・中・底筒男)が神功皇后に「わが荒魂を山田邑に祭りなさい」 との教えにしたがって住吉神社を創建されたとあった。
 その山田邑とは 現在の綾羅木川の低地帯と 周辺の台地および丘陵を含む一帯の古称で 住吉神社は綾羅木川の河口から4キロほどさかのぼった森の中にある。また 現在の本殿は南面しているが 神殿内で住吉三神が一番西側にあること 祭神に奉仕する宮司が東面して座すことなどから かっては西面していたことがわかる。すなわち響灘側を重要視していたのだ といったことが書いてある。 

(注)  
古代(AD200~400年想定)
大和川と周辺河川
(click拡大)

 
上に 河内長野市の住吉神社は 大和川支流の天野川と書いたが 地図をよく見ると 大和川は西除川の合流地より上流で 石川とも合流している。この石川を直線距離で15kmほどさかのぼると 現在の近鉄長野線の河内長野駅付近に達するがで そこから住吉神社までは これも直線距離で2kmほどである。また 天野川に比較すると石川の方が大きな川であるから 住吉神社への参拝は 石川を船でさかのぼった可能性が大きい。

 また 現代の大和川は 1704年(宝永元年)に 流路変更工事が行なわれた後の流路で それ以前は 国土交通省の大和川河川事務所の古代畿内要図をもとに描いた右図のとおりだから 住吉大社と現在の大和川との結びつきだと決め付けることはできない。でも 河内湖周辺岸辺や 現大和川は 工事前に流れていた小河川の狭間川河口などを港にしていたことは間違いないだろう。 このことは 時代によって主要港も移り変わることを頭において 今後調べることにしよう。
    
 安曇族系の和布刈神社(北九州市)の創建は 筒男命を祀る住吉神社(下関市)と同年
  現在 下関市と北九州市の門司区とを結ぶ国道海底トンネルの歩道の長さは780mである。この歩道トンネルの門司区出口の海岸に 比賣大神・日子穂々手見命・鵜萓葺不合命・豊玉日賣命・阿曇磯良神の安曇族系の五注神を祀る和布刈神社はある。
 社記によると 創建は 仲哀天皇9年とある。日本書紀によると 仲哀天皇は 仲哀天皇9年2月に崩御され その後を皇后の神功皇后が継いで 三韓に出兵した話になるわけだから 仲哀天皇9年の10ヶ月間は神功皇后が勤めたことになる。 また 仲哀天皇9年は 神武暦ではAD200年に当たるから 神功皇后による創建とする住吉神社と同じ年になる。

左:下関市から見た和布刈神社   中・右:潮しぶきがかかる海岸にある和布刈神社
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