住吉神社の筒男三神 |
筒男命はオリオン座と結びつかない 大和岩雄は 「日本の神々」(谷川健一編集 白水社 1984年)の中で 南摂津の住吉大社をとりあげ そこで筒男命に対するいろんな人の考えを詳しく紹介した上で 大和自身の考えとして 「筒男とは 航海の安全な道しるべ つまり守護神 今でいえば灯台のような役目をはたす神のことであり その具象化が星であり船霊なのである。だから 星も船霊も筒といわれるのであろう。」と提示し また 野尻抱影の「日本星名辞典」(東京堂出版 1973年)にあるオリオン座に関する記述を基に 「住吉三神を(オリオン座の)三ツ星に推定したい」と結論づけている。 だが この大和が 筒男を航海の道しるべとしたことも オリオン座の中にある三ツ星に推定したことも 次に示す理由により 理解し難い。 まず 下の図を見ていただきたい。これは 「つるちゃんのプラネタリュウム」を使って 1月から12月まで旬毎に オリオン座が見える可視時間を出し その時間をグラフにしたものだ。ただし 観測点を鹿児島にとり 大きな傾向を見ることを目的としたので 可視時間は 時間単位として分は省力した。 だから 本来滑らかなカーブを描く図が 階段状のたかなり荒っぽいものになった。
次に この上の図を頭の中に置いて 下の表を見ていただきたい。これは 長崎県福江市(五島)の海面から35mほどの高さの位置で 福江測候所が観測した記録を「独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構」などが整理した1994〜2003年の10年間の年別月別平均風速(m/s)数値を使った。 10年間×12ヶ月=120ヶ月のデータを機械的に 風速が早い方から40ヶ月ずつとり赤・黄・緑の3階級に色分けした。 そこで たとえば 東シナ海を渡って 日本列島と中国大陸との間を 2000何百年か前の船で行き来する場合を想定してみる(風は現代と大差ないものとする)。 風が強い赤は航海危険期 風が緩やかな緑は航海安全期と単純化して大雑把に見ると 1〜3月は航海できない季節になり 4〜6月と9〜11月は航海可能な季節になる。 もっとも 細かくみれば 7月は 陸地が温められてそこへ海から風が吹き込む陸海風の数値も入っているかも知れないし 8〜9月は台風の影響も考えねばならないが ここで注目しておきたいのは 最も航海が盛んだったと思われる4〜6月の季節とオリオン座が見えない季節が重なっているということだ。 そうすると オリオン座が見えなくても航海していたと考えて間違いないだろう。
また 大和が 「筒男命はオリオン座のことだ」と主張する根拠に使った野尻抱影の「日本星名辞典」は 日本全国の人からオリオン座を目標物として どんな使い方がされているのかなどの情報を集めたものだ。 この野尻の書に出てくるオリオン座の使い方は時刻・季節・航海に分けられる。 その各使われ方の件数を数えると 時刻5件・季節17件・航海2件となる。 航海に使ったところは 「(オリオン座の)三ツ星は 正しく東から昇り 正しく西に入るので 海上では重要なアテ星となる。」という箇所と 「東シナ海で撃沈された輸送船からボートで脱出した人たちがオリオンで方角を知り台湾北部の無人島に漕ぎ着いた。」という話だけで これらも オリオン座が見える季節に限定される。 あとは サバが釣れる時期 カモが来る時期 新酒が出来る季節 麦を蒔く季節 夜明けが近いことを知らせるなど 現在のカレンダーや時計代わりとして使った話ばかりである。 ことによると 野尻がオリオン座の中にある三ツ星から住吉三神を空想する と言っていることも大和の考えに影響しているのかもしれないが これは 当の野尻が空想と断っているように 星の美しさや神秘性に魅せられた専門家として 明確な根拠を示せないが 星空のロマンとして述べたに過ぎない。 ちなみに オリオン座の使われ方に対して 同じ野尻の書で北極星は 全て(7件)航海の目標物として使われており 他に時刻や季節で使われた記述はない。 こうやってみると オリオン座は 航海の目標物というより 種蒔などの農作業の開始時期や魚介類の漁期の判断に欠かせない季節変化の目標物として使われた可能性が高い。 <トップに戻る> 太陽と北極星を使って航海 では オリオン座が航海に使われたのでなければ いったい何を頼りに航海していたのだろうか というのが次の課題になる。船の航海に欠かせないのが 時刻と方向 及び 目的地へ向けて方向を定めるために使う目標物だ。 現代あるような時計もコンパスもない時代に どうやって目的地に向って航海したのだろうか。 この課題の参考になるのが 鳥の渡りや帰巣飛行である。 この鳥が目的地に向う飛行と 古代船が 島影も陸地も見えない大海原を航海する方法は 原理が同じなのだ。 鳥について 桑原万寿太郎の「動物と太陽コンパス」(岩波新書 1963年)が参考になるので 以下 その概略を極簡単に記述する。 実は 鳥は体内に時計をもっているそうだ。どんな時計かと言えば ある位置で太陽光線を受けると その位置におけるその日に太陽が描く軌道を読み取る能力をもっているそうだ。 だから 日の出・正午(太陽が真南)・日没がわかるのだ。 この体内時計を使えば 鳥は A地点からB地点に移動した場合 二地点の日の出・日没時刻の違いから東西方向のずれを読み取り 太陽の方向を見る仰角の変化で南北の変化を読み取ることができるのだ。 この体内時計は記憶されているので 夜間でも渡り鳥の移動や伝書バトの帰巣に使われているのだという。詳しくは桑原の書を読むことを勧めるとして 次に この体内時計を使った鳥の行動と 現代のような航海計器をもたない古代船が 島影一つ見えない大海原を目的地へ向かう航海と共通している点があることを説明する。 時代を問わず 船の航海で欠かせないものは 時計とコンパスである。 現代のように 器械時計や羅針盤などがない時代の人たちは どんな時計とコンパスを使っていたのだろうか。 実は わたしたち人も体内時計をもっている。 その例として 個人差はもちろんあるが 毎朝 起きている時間が来れば目が覚めることや 屋外で 器械時計がなくても もうそろそろお昼(正午)だ あるいは 日が暮れる前に片付けるなど と言ったりするが それは太陽から読み取った時刻である。 また 太陽の高さ(仰角)の変化や日照時間の長短で季節を知ることもできる。 もっとも 季節変化の確認は 動植物 雪形 風 星座などいろんな自然現象も使っている。 2千数百年前の古代を想定した場合 この人がもつ体内時計を鳥と同じように使えば陸地が見えなくても 目的地へ向けての方位をとることができたわけだ。 でも 太陽が見えない夜間はどうしたのだろうか。 これは 一言で言って星を使った。 星の場合 先ほどのオリオン座のように 季節によって見えない星は 季節限定だけに年間を通じて使えない。その点 北極星は 細かいことをいわなければ 動くことなく季節に関係なくいつも出ている星だから 夜間の航海にはありがたい貴重な目標物になっている。 しかも 北極星のまわりの星の動きが時計になってくれるから 時計とコンパスをかね揃えている。 たとえば 船の進行方向から90度左手に北極星を見ながら走れば東へ 右手に見れば西へ 正面(面)に見れば北へ 眞後ろ(艫)に見れば南へ向っていることになる。 だから 航海にとって 軌道上を動く太陽より便利な目標物になる。 ただし 雲がかかると 見えないから そのとき見える他の星を使っての補助が必要になる。だから 先ほどのオリオン座もをはじめ 航海するには 季節によって出没するたくさんの星の知識をもっていなければならない。しかも それらの星は北極星と違って 太陽と同じように 定まった軌道を描いて移動するから その知識も必要になる。 なぜ 海の神様は綿津見と筒男の2系統なのだろうか その1 以上のように見てくると 古代の航海者にとって 陸地が見えない危険が一杯の大海原を航海する場合 頼りにする太陽と北極星を守護神と崇める気持が生じてくることは自然であろう。だから 記紀に出てくる海の神様として 綿津見神と筒男命の2系統の神様が出現する起源が 太陽と北極星にあると考えるのも一つかもしれない。 それに 大海原では 太陽は海から上がって 海へ沈む。 だから 古代の航海者にとって 太陽は 自分たちを見守るために 海から出てきて海に戻ると考えれば 太陽という守護神は 海の中に住んでいると考えてもおかしくない。 しかし そうすると 海から出没しない北極星との整合性がとれない。 それに 北極星は 古代中国では 天の中央に座す皇帝という考えがあるから もしその影響を受けているとしたら 海の神様として祀ることはなさそうだ。 その2 海上輸送で大切なのは 船と人を除くと 航路と港である。 いかにして 荒波が命を狙うように襲ってくる航路を安全に航海するか 現代のような防波堤のない港で いかにして安全に停泊するか これが大きな問題であったことは間違いない。 ただ 陸地から離れた何も遮るものがない外海と 砂浜や湾など陸地に接した内海では 同じ海でも両者は大きな違いがある。 だから 海の神様を航路の安全と港の安全を願う神様を別扱いにして 2系統に分けたことは考えられる。 この航路と港の考えで 港イコール津と置き換えて単純化すると 航海は 「船が津から出て 航路を走り 津へ入る」 ことになる。 少しふざけて表現すれば 「from 津 to 津」が航海である。 その3 ところで 航海方法には 天文航法と地文航法がある。天文航法は 前述の太陽と星を使って昼夜航海する方法だが 地文航法は 太陽の明かりで陸地が見える昼間に 島影・山・岬などの陸上にある目標物を頼りにした航海である。 したがって 海図や灯台などもない時代に 東シナ海のような 陸地が見えない海では 障害物がないから天文航法を使い 瀬戸内海のような島や礁など夜間の障害物になる海では地文航法を使う。 そうすると 島や礁がある沿岸や瀬戸内海などのような海域は 地文航法をとらざるを得ないから 津から津を連ねる航海になる。ここで考えられることは 外海で天文航法をとる安曇族は海の神様として綿津見神を 沿岸や内海で地文航法をとる人たちは筒男命を祀る。 筒は 津を連ねた津々のことか そもそも 筒男の筒が星を意味するという説は 吉田東吾が金星を「夕づつ」と言うとしたのが発端のようだ。 この説だと 単純に文字の読みを借りてきただけとも受け止められる。 そんなことだったら 津々浦々の津々も俎上に上げてもいいのかもしれない。 山田孝雄は この吉田説を根拠が薄いと否定して 津之男(つのを)という説を出したそうだ。次に倉野憲司は 古事記(岩波文庫1963年)の注釈の蘭に 「筒は星の借字で 底・中・上の三筒之男はオリオン座の中央にあるカラスキ星(三ツ星)を指し これを目標として航海したところから 航海を掌る神と考えられる」と書いている。 これらを受けた形で 大和が筒男はオリオン座と共鳴して 住吉三神を三ツ星と推定しいるが これは前述のとおり オリオン座は その出現が季節に左右されることから 季節を知る星として利用されるが 航海にでは補助的な目標物としてしか使えない。 そうすると その1の太陽と北極星という宇宙を対象にしたスケールの大きなロマンをもつ吉田・倉野・大和の説は成り立ちそうにない。 筒男命の「筒」は 単にツツという音に筒の字を当てただけだろうか 津から津へと津を連ねての航海 すなわ 地文航法を表現したもの あるいは 津と津をパイプで「つなぐ」と言う意味をもった表現はなされていないのだろうか その方面の素人として 現段階ではわからない。 ところで 日本書紀で筒男命の少し前に出てくる磐筒男命の筒は津(港)に関係ないから 筒男命の筒の意味がわからないとされているが その磐筒男命の前に出てくる磐裂神や根裂神が 裂はイコール離すと解釈すれば 筒は離すの反対語としてつなぐ あるいは 連ねる神の出現と理解できる。 そうすると 津と津をつなぐこと あるいは 連ねることに力点を置いた表現が筒だと考えられないだろうか。 津々と住吉海路 以上だらだら述べてきたが この項は 頭の中でいろいろ考えることは出来ても 結論を出すまでには程遠い。 ここまで述べながら 興味を覚えたことは 安曇族系の神社の名称が 和多都美神社・志賀海神社・風浪宮・穂高神社・綿神社と別々であるのに対し 住吉系が 住吉大社を始め全ての神社に住吉がついている点と 住吉七社が いわき市の住吉を除くと 壱岐・博多・下関・明石・神戸・大阪と 東シナ海から大和朝廷まで 一本の航路沿いの要所々々に鎮座していることである。 いずれにしても これらのことも含めて今後の課題が 揃ってきた。 |