安曇族と住吉神社-5(壱岐市)
2009年10月18日 壱岐の住吉神社を訪ねた。

壱岐島
 博多港から壱岐の芦辺港までの距離は64キロほどある。その間を65分でジェットフォイルという高速船が走っている。船内表示の速度計をみていると 博多港を出て少しずつ速度を上げ 時速60キロを越え 70キロに達するとすぐに落としていた。

 壱岐島は 南東17キロ 東西14キロ 面積138Kuで 島の中を結ぶ幹線道路として 右図のとおり Lの字型に国道382号線が走っている。 国道のY(縦)軸が12キロ余り X(横)軸が6キロ余り
ある

 地図で見ると このY軸を横断して流れる川はない。言い換えると 南北に走る国道の382号線は 壱岐島を東西に分ける分水嶺を連ねていることになる。さらに言い換えると Y軸は壱岐島の山なみの尾根を伝っていると言える。

 Y軸の西側は 東側に比べて海岸線までの距離が短い。したがって島を流れる大きな川は 東側の9キロ余りの幡鉾川と6キロ弱の谷江川になる。 この両河川ともその流域に水田が広がっていた。
 壱岐島を総じて言えば 太古から 水もあり 食糧の自給自足ができる豊かな島と言うことになる。  

箱崎八幡神社
箱崎八幡神社 鳥居の額は八幡神社
拝殿の中も八幡神社 境内に「箱崎GoGoクラブ」
月読神社 谷江川

 芦辺港で下船してタクシーに乗り まず 谷江川沿いに遡って 箱崎八幡神社に行くように言ったら 生まれも育ちも壱岐島だという運転手が その場所を知らなかった。島では あまり知られていないようだ。

 私が地図で調べていた場所を指し この神社かな と言って着いたところが箱崎八幡神社だったが 鳥居の額には八幡神社とあり 箱崎が付いていない。運転手が電話で連絡を取って ここに間違いないと教えてくれたことと 拝殿から石段を降りた左手に「箱崎GoGoクラブ教室」と看板を立てかけた建物があったので ここが箱崎八幡神社であることを確信できた(右写真)

 箱崎八幡神社は 「日本の神々ー神社と聖地」(白水社 谷川健一編)や「玄松子ホームページ」によると 創建時には オンダケ山(男岳:地図右最上段▲印)にあったが その後時代とともに数回遷座して 現在の地に鎮座したのは 元禄13年(1700)だそうだ。

 箱崎八幡神社は 御祭神に海裏宮(竜神) 豊玉毘古命(又は豊玉姫命) 玉依姫命などを祀っているから 海とのつながり 綿津見神とのつながりがあることがうかがえる。 社名に箱崎と付いているのは 福岡市にある箱崎宮からの勧請によるそうだ。
 
月読神社
 箱崎八幡神社から住吉神社へ向ったが 途中 タクシーの運転手が 神社めぐりの人が必ず寄る神社として 教えてくれたのが月読神社である。

 ただ この月読神社は 延宝の神社改めの際 山ノ神と称していた社殿もないところを誤ったもので 本来の月読神社は 先の箱崎八幡神社に祀ってあったという説もある。  

住吉神社 幡鉾川
住吉神社から広がる水田風景
住吉神社(下拡大)と国道382号線(国交省空中写真)
国道(左)の下にある住吉神社(国交省空中写真)
住吉神社
 <道路より低い位置にある理由>
 神社は 通路より小高いところにあって 下から仰ぎ見るのが一般的であるが 壱岐の住吉神社は 国道382号線沿いに面した鳥居をくぐって下がった位置にある。だから 住吉三神(表・中・底筒男)を祀ってある壱岐の住吉神社は 谷底に下がってお参りに行く変わった神社だ と 表現する人もいる。

 タクシーは その鳥居をくぐれないので 脇にある道路を下まで降りた。 降りたところからは 住吉神社を仰いで対面することになる。そうすると 小高いところにある一般的な神社と何ら位置関係は変わらない。 
 
 この道路の下に位置する神社の謎は 国道沿いの鳥居を下がって来たのではわかりにくいが 一端下まで降りたところに立てば解ける。

 当初 山を背にして山麓の小高いところに住吉神社を建造し 人々は下から上って参拝したであろう。 その山の尾根には 人が歩いて通る小道があってもおかしくない。 全国的にみても 神社の裏山の尾根の小路がハイキングコースになっている例はある。 その小路を連ねながら幅を広げ 本格的に道路が建造されれば 道路の下に神社が位置することは当然だ。

 すなわち 社殿建造より遅くれて 裏山の尾根沿いに国道が開通し 時間経過とともに道路沿いが発展して生活域になると 道路から下がって住吉神社参拝に行く人が多くなる。 そうすると 参拝への利便性を考慮して 国道から住吉神社へ通じる鳥居を建てたと解釈すれば納得できることだ。 
 <川が港である史実を実証>
 壱岐の住吉神社が日本史上で貴重なのは 多々論じられているように 朝鮮半島と北部九州を結ぶ航行船の寄港地であることはもちろんだが もう一つ 殆ど論いられていないことがある。 それは 川が港として利用されていたことを実証できる資料として 原の辻遺跡から船着場が発掘された史実である。

 この川が港になる理由は 拙著「安曇族と徐福」で詳しく述べ また 安曇野市の住吉神社4でも触れた。 簡単に述べれば 人工防波堤がない時代 船底形状が尖った船は 海では荒天やフナクイムシの食害があるので それを避けて川を港として利用した という考えだ。 この考えの正しさを原の辻遺跡の船着場は実証してくれた。

 さらに その職名から 津すなわち港を管理する職名から付いたと考えられる津守氏が なぜ住吉神社の管理人かという謎も解けた。 それは 壱岐の住吉神社の場合 海から見ると 河口から幡鉾川をさかのぼって 1.8キロほどのところに原の辻の船着場があって さらに その上流に住吉神社がある。

 この海から川・船着場を経由して住吉神社に達する一連の位置関係は 船着場の遺跡が発掘されていない福岡市の住吉神社 下関市の住吉神社 大阪市の住吉大社 神戸市の本住吉神社にも通じる位置関係だ(福岡・下関は現場訪問済み 大阪・神戸は未訪問 未訪問の対馬の住吉神社は地図上では不明)。

 だが 原の辻の船着場は 幡鉾川河口に大型船を停泊させて 小船に乗り移って幡鉾川をさかのぼったと考えている人もいる。 でもこの考えは 次の理由により成り立たない。

 川を航行する小船は 浅瀬も航行する関係で船底形状は平であるから 船は砂浜など平らな地に引き上げることができる。 そうすると 大掛かりな固定物でつくる船着場の必要性はない。 また 河口に停泊させたという大型船の船着場も造ったのか という疑問が生じる。 これは 河口の位置は洪水などにより 年によりかなり頻繁に移動するから 固定した構築物は造れない。 だからこそ わざわざ川の流路が安定している上流までさかのぼった位置に船着場を造る必要性があるのだ。 その流路が安定する位置が 壱岐島の幡鉾川の場合 河口から1.8キロさかのぼった位置ということだ。 
<今後の課題>
 原の辻遺跡の現場には行ったが 船着場は埋め戻されて眼で見ることができなかったし まだ 原の辻遺跡に関する報告書に目を通していない。 報告書を読む前に 現在  理解できてない4課題を次に掲げておく。
 @ 当時 幡鉾川が大型船の底が当たらない深さあったかどうかということ これは 船の喫水線の深さや舵の上げ下ろし可能な構造だったかなどである。
 A 使った石は何処の産で どうやって運んだのだろうか。
 B 船着場遺跡を写真で見る限り 石積み岸壁になっているようだけど 水深と船底との関係で 船着場に捨石を入れて水底を嵩上げするわけにはいかない。 かと言って 水中作業で石を積み上げることも考えにくい。 そうすると陸地を掘り込んで 石を積み上げ 岸壁ができたところで 提を切って水を流し込む堀込式
(注1)で建造したことが考えられるが 果たして。
 C 堀込作業などに 鉄製耕具や鉄製工具で作った木製耕具が使われたのか それとも 石製工具で木製耕具を作ったのだろうか。 鉄製品を使ったのであれば それは 中国大陸から来た技術か 朝鮮半島からの技術か。 朝鮮半島の技術を使ったという考えもあるが 朝鮮半島で鉄器の製造はAD1〜2世紀とされているので 時代との整合性がとれる根拠はあるのか。

 船を川に入れるようになると その船着場を何らかの形で管理する必要性が出てくる。 船を川に入れるようになった理由は 前述のとおり 船底形状がVの字の尖底になってからだ。 この尖底船は 東シナ海などの外洋を航行する船(注2)にとって先進技術導入だから 日本列島では まず 海人の安曇族が採り入れた可能性が高い。 そうすると 最初に 川の船着場(港=津)を管理したのは安曇族と考えられるから 津守氏は安曇族の出身だと言う説の根拠の一つにあげられる。   
    
 時代を問わず 荒海を渡って港(津)に船を泊めると 乗組員が安全安心するのは同じである。 また その航海の無事の御礼と これから出かける航海の安全を神に祈りたい気持も 変わらない。 天気予報や進んだ航海計器がない時代はなおさらの事であろう。
 その気持を受け止めてくれる海の神を祀った神社が望まれるのも自然である。 その神社として住吉神社が生まれ 神と人ととをつなぐ神事を司どる役を港の管理者である津守氏が受け持った これも自然の成り行きであろう。 神社の建造位置は 船着場から川に沿って 船の乗組員が参拝に行けるところになる これも自然である。 

 以上のように考えてくると 現在 川・(船着場)・住吉神社が一連のセットになっていることが理解できるし 住吉神社の荒魂は時化 和魂は凪 とも理解できる が 果たしていかがなものだろうか。

 
注1:港を造成する方法に 堀込式と築堤式の二つある。堀込式は上文中に記したとおりで それに対して築堤式は 海などの水中に防波堤を築いて その内側を静穏な水面にする方法である。
 注2:瀬戸内海などの内海や川を航行する船の船底は平であった。 


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