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柳沢遺跡(信州中野市)に船着場?
結論を先に述べると 海船と川舟の荷物積換ハブ港だった。
<船着場適地条件> 2008年秋 S氏から 「北信濃 柳沢遺跡の銅戈・銅鐸」(長野県埋蔵文化財センター著 信濃毎日新聞編集発行2008年)を頂き 安曇族との関連を問われた。 この柳沢遺跡について 私は 2007年10月23日の朝日新聞に掲載された小さな記事を切り抜いていたが 別に問題視していなかった。 だから その場で冊子をめくっても 即答はできなかった。 だが 以来 頭の中に残りときどき考えさせられる課題となった。 2009年10月 長崎県壱岐に行って住吉神社と幡鉾川を見てまわり 直接見ることができなかった原の辻遺跡の船着場に思いをめぐらせ柳沢遺跡と船着場の関係を調べてみたくなった。 そんなとき 思い出したのが上段写真の地だ。 ここは 私の疎開先で 小学1年から中学3年まで9年間ほど 毎日遊んだ地で 福岡県小郡市端間を流れている宝満川(筑後川支流)とそこへ合流する小さな支流(名前は知らない)の合流点だ。
この合流点に船着場があった。 右上写真の★印付近がそれで 支流河口の右岸だ。 私が子供の頃は 既に廃れていたが かってこの場は 地場産品の櫨から採った木蝋(もくろう)の積出港でにぎわい料理屋が軒を連ねていたそうだ。 戦後も その名残はこの右岸にあった。 左岸及び本流は船着場になっていなかった。 支流の河口に船着場があったことに注目する。 次に 中段写真は 本題の柳沢遺跡がある千曲川と支流の夜間瀬川が合流する地点だ。 上段宝満川と比較し易いように 南北を逆転させて載せた。 この2枚の写真を比較した場合 時代と川の大きさは全然違うが共通点は @地形的に見て 大きな本流に小さな支流が合流する地。 A本流でなく支流の岸辺付近に人々が集まる場がある。 人が集まっていたことは 宝満川支流河口では料理屋から 柳沢では遺跡から読み取ることができる。 上述の@Aだけでは 柳沢遺跡と船着場との関係を云々することはできないので 船着場の適地条件を海・川・船の視点から考えてみる。 以下は 壱岐の住吉神社の項でも 拙著「安曇族と徐福」でも述ているが これは 記録がない古代日本史を解明する鍵になることだから あえて記述する。 船着場は 船底の形状によって大きく変わる。 形状がU字型の平底であれば砂の浜辺や平らな岩場に引き揚げることができるが V字型の尖底だと横転するので引き揚げることはできない。 だから V字型の尖底船は水面に浮かばせて係留することになる。 船を安全に浮かばせるには 水深と水面の静穏が要る。 海は水深では問題はないが 現代のように人工構築物の防波堤がない時代は どんな湾でも沖合いからのウネリや風による波の影響を受けるから ごく短期間なら別としても 常に船を海に係留することはできない。 だから V字型の尖底船は 風浪の影響がほとんどない川に入れることになる。 でも川には流があるから 流が緩やかな水面を係留地に選ぶことになる。 以上のことを頭に置いて川の本流と支流との関係を採り上げる。 本流と支流の間に 川幅・水深などで大きな差があると 支流の河口は本流の影響を受ける。 本流の水位が上がれば 支流へ逆流する。 逆に支流の水位が本流より高くなっても 川幅が違うから 本流水面に薄く広がるだけで 支流の流れは合流点で緩やかになる。 言ってしまえば B支流の河口は本流の淀みになっているということだ。現代でも 河口近くの港は 川の流れを避けた場として造成している。 下段左写真に 相模川河口にある平塚漁港を例示した。 支流河口が淀むBのことを川で遊んでいた私は 子どもときから体験で知っていた。 本流の宝満川が泳げないほど増水すると 日頃水深が浅くて泳げない支流の水量が増え 格好の泳ぎ場になったのだ。 以上の本流と支流の関係は 支流といっても 犀川のような大支流と千曲川との間では成り立たない。 本流と支流の規模が大きく違う河川の合流地で成り立つ条件だ。 要するに 淀みができる条件があれば船着場になると言うことだ。 壱岐島の原の辻遺跡の船着場は 実際に見ることができなかったが 幡鉾川の支流河口ではなさそうなので 淀みを人工的につくったのか 自然の地形を利用した淀みであろう。 もう一つ船着場の適地条件として 荷の積み下ろしに適していることもあげられる。 原の辻遺跡の船着場は石造りだそうだが 川底に杭を打ち込んだ簡単な桟橋でもかまわない。 石造りにしろ 木製桟橋にしろ その造成にあたって 船底が川底に当たらない程度の水深(弥生時代の船だと1m前後?)があれば それ以上深くない方が適地といえる。 また 船は流されないために 綱を岸辺の蛯ネどの樹木や岸辺や川の中に打ち込んだ杭に舫う。 川の中に杭を打って舫う方法は現代でも行なわれている。 下段右写真は 有明海の干満に合わせて長い杭を筑後川河口近くの川中に杭を打って舫っている例示だ。 この船の係留ということでも C水深は必要以上深くない方が 杭の長さ 打ち込み作業を考えると 船着場の適地になる。 |
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千曲川と夜間瀬川の合流地付近の流量データは 探したけれども 現段階では入手できなかった。 でも 柳沢遺跡を流れる千曲川に流れ込む降水面積と 夜間瀬川への降水面積を地図上で比べると 数十倍の差がある。 おそらく両河川の流量差も 数十倍はあるだろう。 それでも 両河川の合流地が 上に掲げた@ABCの船着場の適地条件にかなっているかを直接自分の目で確認したくて 現場に出かけた。 その結果を言うと 土地に不案内なこともあって 間近に行きながら草木の繁茂が視界を遮り それを掻き分けながら進むこともできず 残念ながら 合流点に立つことができなかった。 でも @とBの適地条件はグーグルアースの航空写真からわかるし Aは前述のとおり 遺跡があった事実が雄弁に語ってくれる。 Cは夜間瀬川の流をみれば見当がつく。 本流に比べ小さな支流が合流する@ 支流岸辺に人が集まっていたA 支流河口が淀んでいるB 深くない水深Cの4条件を満たしている夜間瀬川河口 すなわち 柳沢遺跡は 船着場をもった集落だった可能性が大きいものと考えられる。 だが こんなことを言っても 出土品から遺跡を考えるこの分野の専門家たちは到底納得できないだろう。 専門家も納得できる船着場の証拠を確認するには あらためて夜間瀬川河口域右岸を掘るか 河川改修工事などが行なわれる機会があれば 岸辺や川の中に打ち込んだ杭の痕跡や石の出土に期待する以外になさそうだ。 船着場だから 地中から船の出土を期待する向きもあろうが 木造船を廃船にするときは燃料として使うし もし放置していたとすれば流出するから あまり期待できない。 もう少し船着場の位置を絞る。 その鍵は 銅戈・銅鐸が出土した位置から7本の銅戈が向いていた方向にある。 だから 幅をもたせた帯状の線でその方向へ掘り進むことかと思う。 なぜ 銅戈の方向かというと 埋蔵されていた銅戈は 使用されていない武器である。 武器は凶事から守ってくれるお守りであり 魔除けである。 現在の監視カメラにも通じるところがある。 ところで 写真3段目左は柳沢遺跡で千曲川方向を向いているの銅戈で 右は1864年に長州藩が関門海峡で英・仏・蘭・米の4ヶ国を相手に戦って惨敗して持ち去られた青銅製大砲のレプリカだ。 現在 下関市に関門海峡へ向けて並べられている。 この戦争は長州藩にとって凶事である。 レプリカの大砲にはいろんな思いが込められているのだろうが 根底に凶事から守る願いもあるだろう。 この凶事からのお守り しかも武器という点で 下関の大砲と柳沢遺跡の銅戈は共通するところがある。 そう考えると 銅戈は凶事から守りたい方向を向いている可能性が強いかと思うがいかがだろうか。 柳沢遺跡の場合 当時の凶事としては 川の氾濫など竜神による災害や 落雷による雷神による被害など自然の猛威がある。 銅戈が千曲川の方を向き その刃を上向きに立てていたことは 龍神や雷神に対する守りを表わしているのではないだろうか。 なお 銅戈・銅鐸が地中に埋められていたことは 盗難防止もあるだろうが 当時 既に金属に雷が落ちやすいことを知っていて それを避けるための処置と考えるが これもいかがだろうか。 考古学としては 銅戈に大阪湾型と九州型が混在していた理由などに関心が強いようだが 当時 海川の水路を得意の操船術を駆使して自由に日本列島・中国大陸を航行していた安曇族が 既に安曇野にも行き来していたことを考えると 時代や産地を問わず手に入った銅戈を柳沢の船着場のお守りとして持ち込んだ可能性がでてくる。 なお 柳沢遺跡に船着場があった可能性がでてきたので そうだったら 他にもあるだろうと思い インターネットや文献と地図を使って少し調べてみた。 もう少し時間をかけて探せばまだ出てくるだろうが 参考のために これまでわかった大小河川の合流地が船着場になっていた遺跡の例を示しておく。 1 熊本市川尻(緑川水系) 2 熊本県菊池市七条町橋田田中(菊池川水系) 3 福岡県宗像市田熊(釣川水系) 4 島根県益田市今市(益田川水系) 安曇族の活動を追いかけている私としては この柳沢遺跡に船着場があったとすれば これまで 喉に引っ掛かっていた課題が解決する。 その課題とは 逆風に逆らって海上も走行できる効率的な航海には 尖底船が適しているが 川に入って川底に船底が当たる深さになると 動けなくなるから 海船から川舟に乗り換えなければならないが その具体的な方法がわからなかったことだ。 殊に 犀川をさかのぼって安曇野に入る場合 尖底船の海船では不可能だ。 一方で 穂高神社を核とする安曇野が 時代に即して発展してきた事実がある。 安曇野に海船は入れないが人や物資は入った。 この矛盾点を柳沢遺跡に船着場があったことが解消してくれたのだ。 すなわち 柳沢まで海船で運んできた荷を川舟に積換えて 柳沢から千曲川水系と犀川水系の各地に上っていく。 そう考えると 柳沢は 弥生時代のハブ港であったと言えそうだ。 そうだとすれば 柳沢の船着場はいつの時代に造られたのか という課題がでてくる。 これについて先に結論を述べると 紀元前2世紀の初め以降だ。 その理由は V字型の尖底船が出現してからだ。 この辺の事は 拙著「安曇族と徐福」に書いているが簡単に説明すると V字型の尖底船造りは 板を接ぐので 板作りに必要な鋸 板を接ぐ船釘が要る。 これらは鉄製だから 鉄の出現以降になる。 中国大陸で鉄が使われ始めたのは 紀元前3世紀末と見ていいだろう。 一方 その他にもV字型の尖底船づくりには条件がある。 それは 現代で言う乾ドック(ドライドック)が要ることと 造船技術が日本列島に入って伝わることである。 これらは 拙著に書いたように 徐福が各種技術者(百工)をつれてきた時代以降だから おおよそ紀元前2世紀の初めになる。 ついでに付け足すと V字型の尖底船が造れない以前は 海では平底の刳船(丸木舟)を二艘横に舫った舫船で航海し 川に入ると 舫船の舫いを解いて 一艘づつ川舟として走行した。 <川舟で安庭の滝も遡上> 川舟が安曇野に入って行くことに関して もう一つ課題がある。 それは 犀川に入ると川舟の航行にとっていくつもの難所があるが そこをいかにして航行したかという疑問である。 その難所の代表格的なものが旧信州新町にある「安庭の滝」だ。 「安庭の滝」について 国土交通省の千曲川河川事務所がインターネットで発表している「千曲塾」の16回議事録( )で市川(健夫?)塾長が 滝(Fall)でなく早瀬(Rapid)だと述べている。 その「安庭の滝」の現場に行ったが 現在 下流に作られた笹平ダムで水没しており 直接見ることはできなかったが 少し調べてみると 犀川は川舟で上ることができたという結論に達した。 以下 その経過を述べる。
犀川を航行するに当たっての難所は 安曇平(松本盆地)と善光寺平(長野盆地)の間にある。 ここでは 安曇野市明科にある犀川橋から長野市川中島町犀川小市橋までを対象とした。 以下に示す 標高と地点間の距離の値はグーグルアースを使って出した。 安曇野市の犀川橋の標高513m 長野市の小市橋の標高355mだから この犀川2地点の落差は158mになる。 2地点間の距離は61.07Km。 そうすると 2地点間の平均勾配は386分の1になる。 この数値をどう見るか。 富岡儀八は「塩の道を探る」(1983年岩波新書)で 川の傾斜勾配と舟荷の積載量の実績から 400分の1勾配を遡上の限界としてる。 前出の千曲塾の市川塾長の話には 算出根拠と積荷の有無は示されていないが 水運可能な勾配は300分の1とある。 富岡の数値だと 舟に荷を積んだままだでは遡上できないことになり 市川の数値だと とにかく 舟は遡上できるということになる。 でも 勾配386分の1という数値は平均だから 場所によっては舟の遡上により厳しい地域があるはずだ。 また 市川によると 幕末の天保(1830〜1844年)に 松本市から信州新町まで通船が運航されるようになったとあるから この間の勾配はそれほど急ではなかったと解釈できるが 半面 先の2地点間で通船区間より下流の勾配は より厳しいと言うことになる。 そこで 滝という名称がつくほど急勾配の安庭地区の勾配をみるために 安庭を挟んで 川床が出ている信州新町道の駅から笹平ダムの下の犀川水面の標高を調べると 道の駅では標高419m 笹平ダム下391m だから その差28m。 その間の距離は 6.46Km。 その間の勾配は230分の1と出た。 この勾配は市川の水運可能値も越えているから 川舟は遡上できなかったのではないか という疑問が出るが 安庭の滝が笹平ダムで水没している現在 これを確認することは難しい。 そこで 他の急流と舟の関係をしらべて比較することにした。 その対象に使えそうな急流を探したが 急流と言っても 安庭の急流より緩やかであったり 舟で急流を下っても 現在 その舟で遡上することはなく トラック輸送で川上に戻していた。 そんな中で 京都の亀岡から嵐山までの「保津川下り」は 世界遺産登録を目指す人たちが 昭和23年まで難所は人力で舟を引き上げていたことを再現しようと その昔と同じ木造船(全長11m 最大幅2m)をつくって 60年ぶりに人力で引き上げていた。 参照 http://hozugawa.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/60-9b7c.html 「保津川下り」亀岡市のスタート点は標高88m ゴールの嵐山渡月橋の少し上流の標高は30m その差58m。 この2点間の距離は12.77Km。(注) 勾配は220分の1で 安庭地区の犀川の勾配よりわずか厳しいが ほぼ同じ値だから 犀川の舟の遡上の可否を判断する参考資料として使える。 (注) 「保津川下り」では16Kmとなっているが 蛇行している川の長さを正確に測ることはむずかしく 測定方法によってその数値に差が出る。ここでは 犀川の場合と統一性を採るため グーグルアースから出てきた値を使った。 保津川の舟は3人がロープを使って引き上げているが 難所の大岩がある所は 岩でロープが擦れて切れないように 擦れ止めに竹を使うなど工夫している。 犀川の安庭の滝の場合 舟の遡上を拒む障害物にどんなものがあるかはわからないが 時代は違っていても 犀川と同程度の勾配がある保津川で 実際舟を引き上げている事実から 犀川でも叡智を絞った工夫をして 舟を引き上げていたことが考えられる。 また 千曲川河川事務所の千曲塾18回議事録で 黒岩範臣は 「安庭の滝は 弘化4年(1847年)起きた善光寺地震(M7.4)で 岩倉山が崩壊し犀川を塞き止め 18日後に貯った水が堰を壊して 下流に大きな被害を及ぼした」と紹介している。 時代的にみると 1847年の安庭の滝と 古代の柳沢遺跡では 時間的に大きな隔たりがあり 古代犀川の舟の航行とは直接関係しないが 信州では1000年に一度 この種の大規模地震が発生するという説もあることや 松本盆地から長野盆地へ 急峻な山間の谷間を流れ下る犀川とフォッサマグナに隣接していることなどから 記録のない時代にも 善光寺地震と同じような大規模地震で 犀川が塞き止められらた可能性はある。 ことによると この地に伝わる大きな湖を壊して排水させ 広い耕地を作ったとする小太郎伝説の背景には 大規模地震→地殻変動→地すべり→犀川堰き止め→自然ダム→ダムの崩壊→急流地の誕生→河川水の浸食→流路確保といった自然現象の繰り返しを長い間語り継がれてきたことがあるのかもしれない。 また 松本市周辺の川で 犀川を上ったサケがたくさん獲れたと言うことからか サケを追いかけて安曇野に入ったと言う人もいるが その成否はともかく サケが上がった地周辺に初期水田稲作適地があったことを考え合わせると興味深い。 ちなみに 佐藤重勝の「サケーつくる漁業への挑戦」(1986年 岩波新書)に 「サケは 産卵のために 激流をどんどんさかのぼってゆくが 水が深ければ 1メートルほどの滝ならば乗り越えるし また 水の少ない浅瀬でも 水のない河原でも 腹ばいで進んでゆく」とある。 繰り返しになるが 陸路が発達する前は 物資・情報・技術などは 水路を通じる以外に伝わるルートがなかった。 そんな中で 古代から安曇野が拓けた事実は 上に記したように舟が犀川を遡上したからである。 その舟の遡上は サケの遡上に見習いながら 古代人が工夫を重ね その上 造船技術や航海技術の進歩に合わせて 柳沢に船着場を設け 海船から川舟に乗換え 滝のような難所を克服してきたと考えると 安曇野への入植・開発・発展が理解できるがいかがだろうか。 <余談:お舟祭りの始原> このページを書いているうちに 本来 根拠として事実を示し その事実に基づく推察に留めて 想像・空想・妄想を排除してきた姿勢が乱れ サケの遡上の段になると だんだん想像性を帯びてきた。そのことを反省しながらも 毒食わば皿まで の心境に近づき この際 少し想像の世界も書いておく。 断っておくが この項は根拠を示すことができない 想像の域であるから眉唾で読んでいただきたい。 安曇野では 穂高神社をはじめ 各地で舟を山車にした祭が行なわれ 海のない山国でなぜ舟の山車かと疑問視されている。 古代 安曇野に外部から人・情報・技術・文化などが入ってくるのは 年に数回犀川を上ってくる舟であった。 舟は現代でも宝船に象徴されるように 人々に何か幸せを運んでくれるものとして待望されている。 西洋ではサンタクロースが 同じような役目を持っているようだ。 待ちに待った舟が犀川を上ってくると 人々は 舟に集まってきたことだろう。 舟のまわりは 物資交換の市にもなり 数少ない賑わいの場になって そこから 新しい情報・技術・文化などが伝わったことだろう。 これが祭りの始まりではないだろうか。 やがて 陸路が発達して 舟が上がってこなくなっても 往時の舟と賑わいが忘れられず 自分たちで舟をつくり その舟に集まる祭りが安曇野の各地で生まれたのではないだろうか。 |